[掲示板へもどる]
一括表示

[No.14622] 絵で見る韓国の歴史 投稿者:男爵  投稿日:2010/01/29(Fri) 10:25
[関連記事

小学生向きの絵本です。
第1巻は全部神話 2巻ではどうなるでしょう。

檀君神話
 天の国を治めている桓因王の前に出た桓雄は
地上に降りて人間の住んでいる世界を治めてみたいと言う。
父王から許されて地上に降りた桓雄は、王として人々を治めた。
ある日、1匹の熊と1匹の虎が桓雄王を訪ねてきて「人間になって幸せに暮らしたい」と言う。
桓雄王は、2匹の獣によもぎ一束とにんにく20粒をそれぞれ分け与えて
「太陽の光が当たらない洞窟の中でそれを食べながら、天の王様に人間になりたいと願い、祈りをささげなさい。ところで、肝に命じなければならないのは、100日たたないうちに太陽の光を見ると、人間になれないということだ」と教えた。
気の短い虎はひもじさと退屈さに耐えられず20日で洞窟を飛び出してしまった。
熊は100日をよく耐え抜き世にまたとないような美しい女に変身した。
こうして熊は善良で立派な熊女になったので、桓雄王は熊女を妻に迎えた。
やがて熊女は子供を生み、この子が檀君なのである。

--------このあと-----------
 北満州の松花江流域の扶余族の解夫婁王や金蛙太子
 金蛙王の柳花夫人の子朱蒙、朱蒙の高句麗建国
 朱蒙の瑠璃王子の百済建国
 新羅の始祖朴赫居世
--------などが続くが省略---------------

延烏郎と細烏女
 徐羅伐の東側の海辺に仲のよい延烏郎と細烏女の夫婦が暮らしていた。
貝を掘り、魚をとり、海草を採っていた。
ある日 延烏郎が岩場にあがって海草を採っていると岩が彼を乗せて
海の真ん中へ出て行ってしまった。
そうしてとうとう日本のある海岸にたどりついた。
日本の村人は、岩に乗ってきた延烏郎を王様として迎え入れた。
日本の王となった彼は
しかし海の向こうの徐羅伐にいる細烏女を思い、早く会いたいと海辺をさまよった。
そのとき、海の上に細烏女を乗せた岩がゆらゆらと現れた。
彼を日本に運んできた岩は徐羅伐に戻って細烏女を乗せて日本に運んできたのだ。
こうして、延烏郎は細烏女を王妃として迎えたのである。

ーーーーーーーーーーー

この本でも卵から生まれるという話がよくでてくる。
延烏郎と細烏女の伝説は、韓国ではポピュラーなようだが日本ではあまり知られていない。
隣の国だから昔から行き来はあったろう。


[No.14623] Re: 絵で見る韓国の歴史 投稿者:Toshichan  投稿日:2010/01/29(Fri) 12:33
[関連記事

 男爵 様。まいど。

> 日本の村人は、岩に乗ってきた延烏郎を王様として迎え入れた。
> 日本の王となった彼は
> しかし海の向こうの徐羅伐にいる細烏女を思い、早く会いたいと海辺をさまよった。
> そのとき、海の上に細烏女を乗せた岩がゆらゆらと現れた。
> 彼を日本に運んできた岩は徐羅伐に戻って細烏女を乗せて日本に運んできたのだ。
> こうして、延烏郎は細烏女を王妃として迎えたのである。
>
> ーーーーーーーーーーー
>
> この本でも卵から生まれるという話がよくでてくる。
> 延烏郎と細烏女の伝説は、韓国ではポピュラーなようだが日本ではあまり知られていない。
> 隣の国だから昔から行き来はあったろう。

 韓国人の主力遺伝子Ob2は日本人の中でも1/3程度を占めていまっせ。
逆に日本人の主力遺伝子D2は半島へは、行っていない。

 日本は無茶苦茶云われてるみたいやけど、これから云うたら、韓国人の方が、
よっぽど侵略的でっせ。

 天皇家の遺伝子検査をやって、もしOb2なら、神武天皇は延烏郎かもしれまへんなあ(>_<)

 書くのは、なんぼでも好きなように書けるよって、読んだ紋は正しいとは、限りまへんで。

                            Toshichan in Kyouto-fu

               

 

 


[No.14633] Re: 絵で見る韓国の歴史 投稿者:男爵  投稿日:2010/01/31(Sun) 15:19
[関連記事

> 第1巻は全部神話 2巻ではどうなるでしょう。

2巻では日本に漢字を伝えたという百済の王仁博士のことが出ています。
ところで
王仁博士は、記紀に記述されていますが、実在については証明はなされていないようです。「日本書紀」では王仁、「古事記」では和邇吉師(わにきし)と表記されているそうです。(もっとも聖徳太子も実在しなかったという日本人学者もいますから)

Wikipediaによると
元来、朝鮮には王仁伝承は存在しなかった。
近代になって日本から流入した知識によるものである。
韓国の中学生用の国定歴史教科書には「王仁は日本に進んだ文化を伝えた」と記述されている。
近年、全羅南道の霊岩郡では、毎年王仁博士祭りを開き、日本に文化を伝えた王仁を記念している(現在全羅南道には王仁関連の遺跡も存在しているが、1970年代以降に創作されたものである)。
などと書いてあり
どうやら韓国にとって喜ばしいことは教科書に取り入れているようです。
もっとも
百済の記録にあったことは、のちの新羅によって抹殺された可能性もないわけではありません。
しかし、ほかにも百済と日本の強い結びつきにも書いてあり、それらの資料は韓国にも残っているようですから、王仁博士の(韓国の)資料は今後に期待したいですね。

3巻では、華厳宗を唐から新羅に伝えた元暁・義湘両僧の伝記が出ています。
この話は釜山旅行中に山人さんから聞いて、帰国したとき偶然福岡の博物館で
義湘と仙妙の絵巻物を見学することができました。
これは京都栂尾高山寺にあったものです。
鎌倉初期の絵巻物で、華厳宗を唐から新羅に伝えた元暁・義湘両僧の伝記として当時の日本の絵師に描かせたようです。
(高山寺の絵巻物では、義湘を助けて龍になったのは善妙ですが、この韓国の絵本では仙妙となっています)

3巻では、仏国寺の石塔を彫った石工アサダルとその妻アサニョの悲恋の話もありました。


[No.14643] Re: 絵で見る韓国の歴史:王仁博士の墓 投稿者:Pan  投稿日:2010/02/01(Mon) 23:26
[関連記事

男爵さん、こんばんは。

> 2巻では日本に漢字を伝えたという百済の王仁博士のことが出ています。
> ところで王仁博士は、記紀に記述されていますが、実在については証明はなされ
>ていないようです。「日本書紀」では王仁、「古事記」では和邇吉師(わにきし)
>と表記されているそうです。

 面白い本のご紹介、ありがとうございます。
 小学校の教科書で王仁博士の事を習った記憶があります。

 その王仁博士の墓へ立ち寄ったことがあります。

 もう40年近くも前のことですが、通り掛かりに偶然標識を見たので、捜してやっ
と辿り着きました。

 今回↓これを見たら、当時と比べて大きな進展?があるので驚きました。

   http://inoues.net/ruins/wani_hakase.html


     ***** Pan *****


[No.14647] Re: 絵で見る韓国の歴史:王仁博士の墓 投稿者:男爵  投稿日:2010/02/02(Tue) 06:04
[関連記事

>  今回↓これを見たら、当時と比べて大きな進展?があるので驚きました。
>
>    http://inoues.net/ruins/wani_hakase.html

Panさん
よいものを見せていただきました。


[No.14639] Re: 絵で見る韓国の歴史 投稿者:   投稿日:2010/02/01(Mon) 13:33
[関連記事

延烏郎と細烏女の伝説は韓国最古の歴史書のひとつ
三国遺事に出ています
後半の記述で
☆細烏女は日本では貴妃と呼ばれた
☆日本の歴史書に
 その時代に朝鮮半島からわたって王となった人物の記述はない
 したがって 日本の王ではなく日本の辺地の王であろう

さて 山口県北西部にある油谷町には
昔から楊貴妃の墓と伝えられるものがあり
近年 町では観光の目玉として
中国福建省から大理石の楊貴妃像を取り寄せて
おっ立てました

私は この楊貴妃は 三国遺事にある細烏女ではないかと思っています
新羅の国から対馬海流に乗って一番最初にたどりつくのは
山口県北西海岸です

町の役場にその話をしたところ
余計な話を持ち込まないで欲しい と言う感じでした
確証はないし 観光事業の邪魔をすることはない と 
一度やりとりしただけで 沙汰やみとしましたが
楊貴妃よりは信憑性があると思っています(^^)

なお 楊貴妃渡来伝説は熊本県の天草にもあります
村人に敬愛されながら一生を終えた と言うことになっています


 


[No.14640] Re: 絵で見る韓国の歴史 投稿者:男爵  投稿日:2010/02/01(Mon) 15:25
[関連記事

> 延烏郎と細烏女の伝説は韓国最古の歴史書のひとつ
> 三国遺事に出ています
> 後半の記述で
> ☆細烏女は日本では貴妃と呼ばれた

> さて 山口県北西部にある油谷町には
> 昔から楊貴妃の墓と伝えられるものがあり
> 私は この楊貴妃は 三国遺事にある細烏女ではないかと思っています

中国は唐の時代
楊国忠と対立した安禄山が反乱を起こし、玄宗皇帝も洛陽から逃げ
戦乱の時代に杜甫も苦労したんでしたね。
のちに、乱の原因となった楊国忠は殺され、楊一族のおごりのもとをつくった
とされた楊貴妃の命も部下に要求され、やむなく、玄宗皇帝は楊貴妃の死を
命じたのでした。

私も
楊貴妃よりは細烏女のほうが
妥当だと思います。


[No.14642] Re: 絵で見る韓国の歴史 投稿者:   投稿日:2010/02/01(Mon) 22:31
[関連記事

山人さん

私も以前この油谷町の楊貴妃の墓に特別ならぬ興味を持ったことがあります。
いろいろ調べたら、中国にも西安から日本へ向かう海岸まで転々と楊貴妃伝説が残っているとか、見聞きしたことがあります。
湯谷町には、油谷町の沖まで辿り着いた船の上で亡くなった楊貴妃を、
村民が手厚く葬ったと伝わっているそうですが、物的証拠は何もないようです。
まあまあのお話でしょう。
ただ、油谷町の近くの土井ヶ浜と言うところに中国本土から逃げ延びた?流れ着いた?人々の人骨が多数発見されており、海流の関係はどうなんでしょう。
もっとも、西安の楊貴妃のお墓も信憑性が今一つですね。
小野小町とか和泉式部とかのお墓も彼方此方にありますね。

このお部屋は写真の投稿が出来ないようですね。
下記に、懐かしい西安と油谷町の楊貴妃のお墓を掲載しました。
http://www11.tok2.com/home/awa/youkihi/youkihi.htm

おっと、山人さんは山口県人でしたね。
釈迦に説法でした。

安房守


> 延烏郎と細烏女の伝説は韓国最古の歴史書のひとつ
> 三国遺事に出ています
> 後半の記述で
> ☆細烏女は日本では貴妃と呼ばれた
> ☆日本の歴史書に
>  その時代に朝鮮半島からわたって王となった人物の記述はない
>  したがって 日本の王ではなく日本の辺地の王であろう
>
> さて 山口県北西部にある油谷町には
> 昔から楊貴妃の墓と伝えられるものがあり
> 近年 町では観光の目玉として
> 中国福建省から大理石の楊貴妃像を取り寄せて
> おっ立てました
>
> 私は この楊貴妃は 三国遺事にある細烏女ではないかと思っています
> 新羅の国から対馬海流に乗って一番最初にたどりつくのは
> 山口県北西海岸です
>
> 町の役場にその話をしたところ
> 余計な話を持ち込まないで欲しい と言う感じでした
> 確証はないし 観光事業の邪魔をすることはない と 
> 一度やりとりしただけで 沙汰やみとしましたが
> 楊貴妃よりは信憑性があると思っています(^^)
>
> なお 楊貴妃渡来伝説は熊本県の天草にもあります
> 村人に敬愛されながら一生を終えた と言うことになっています
>
>
>  


[No.14644] Re: 絵で見る韓国の歴史 投稿者:   投稿日:2010/02/02(Tue) 04:31
[関連記事

安房守さん お早うございます
楊貴妃像の写真 有難うございます
華清池で見た楊貴妃像は裸体でした
なんだかイメージを壊されました(^^)
池のそばには長恨歌を刻んだ
巨大な石版がありました


[No.14650] Re: 絵で見る韓国の歴史 投稿者:男爵  投稿日:2010/02/02(Tue) 22:56
[関連記事

> 小学生向きの絵本です。
> 第1巻は全部神話 2巻ではどうなるでしょう。

挿絵を描いているのは
1912年生まれの金龍煥で
初代韓国漫画家協会会長だが
戦前は日本で活躍した挿絵画家で(筆名は北宏二)
少年倶楽部などに多くの作品を残している。

譚海にも描いてある。
http://www12.ocn.ne.jp/~tateyama/tannkai.html
日本少年にも描いてある。
http://www12.ocn.ne.jp/~tateyama/nihonnsyounenn.html
講談社の世界名作全集にもある。
http://www.hokutendo.com/gidosyo-sekaimisaku.htm
ここでは
梁川剛一や椛島勝一や松野一夫とならんで
名前が出ているから一流だったのだろう。

だから絵はきちんと描かれてある。

4巻では
新羅の王たちが、鮑石亭に流れる水に杯を浮かべて「曲水酒宴」をしているところに
後百済の軍隊が押し寄せてきて、王たちが生け捕られる場面が描かれています。
鮑石亭は白兎山人さんの案内で見ましたね。




[No.14653] Re: 絵で見る韓国の歴史 投稿者:男爵  投稿日:2010/02/03(Wed) 11:05
[関連記事

5巻では
元から密かに綿の種を高麗に持ってきた文益漸のことが述べられてあります。

Wikipediaによると
>朝鮮半島へは1364年に文益漸が国禁を犯して元から伝えたという記録が残されている。

この本には
元につかえた文益漸は、元の順帝をいさめたため
雲南に配流されます。
その地で子供たちに文字を教え、読書をしてすごすうちに
綿の花を見かけ、土地の人から綿花の使い方を教えてもらいます。
すなわち、綿花をとって冬の服の中に入れたり
糸にして木綿に織って服をつくって着ることを教えられるのです。

彼は綿の種を高麗に持ち帰ろうと思うが
国外に持ち出すことは厳しく禁じられていたので
毛筆の柄に綿の種を隠してもってきたという。
彼が配流を解かれた1363年の翌年12月に、彼は綿の種を持って高麗に帰ることができた。

日本へは799年、三河国に漂着したインド人がもってきたという記録があるが、それは続かず
本格的に栽培され一般的になったのは、16世紀以降のようです。


[No.14984] 朝鮮の物語 投稿者:男爵  投稿日:2010/03/27(Sat) 20:43
[関連記事

野崎充彦  大集館書店

一週間後の韓国行きのため、イメージトレーニングです。

>  北満州の松花江流域の扶余族の解夫婁王や金蛙太子
>  金蛙王の柳花夫人の子朱蒙、朱蒙の高句麗建国
>  朱蒙の瑠璃王子の百済建国

河伯の娘柳花は天帝の子である解慕漱(ヘモス)に誘われ私通したため
父の怒りをかい河に流された。
扶余王の金蛙に拾われた柳花は部屋の中に幽閉されるが
不思議な日光に照らされて妊娠し、やがて大きな卵を産む。
王はそれを忌み、犬や豚に与えたところ、食べようとはせず道に置いてみても牛馬は避けるばかり。
野原に捨ててみれば鳥や獣が卵を覆って守ろうとするし
割ろうとしてもだめなので母親のもとに返してやった。
この卵から生まれたのが朱蒙であった。

朱蒙はのちに高句麗を建国する。
  「三国遺事」、「三国史記」、北魏「魏書」高句麗伝に残る伝説でした。

朱蒙には長男瑠璃のほかに、高句麗建国後に生まれた二人の王子沸流(ふつりゅう)と百済の始祖となる温祚(おんじゃく)がいた。

彼らは新たな地を求めて南へ旅立った。
沸流は臣下の反対に耳をかさず海辺に国を建てたが、土地は湿気が多く水も塩辛く住むことができなかった。
いっぽうの温祚は山と川に囲まれた良い土地に臣下たちと力を合わせ立派な国をつくった。
それを見た沸流は己の不明を恥じて死に、その臣下たちはみな温祚につきしたがった。
その国は発展して百済と国号した。そして、自分たちは高句麗と同じく扶余から出たものであるから、扶余をその姓とすることにした。
  「三国史記」

このように高句麗と百済は同系であり、しかも百済では温祚ではなく朱蒙を始祖として奉じていた。


[No.14985] ソウル、韓国語世界への旅 投稿者:男爵  投稿日:2010/03/27(Sat) 21:15
[関連記事

一週間後の韓国行きのため、イメージトレーニングです。

この本は、韓国で日本語教師をしたり、ソウルの大学院で韓国の文学を研究した
青森出身の女性の本です。 彼女は仙台在住です。

1982年8月に韓国に渡った著者は
教科書問題で最も反日的だったソウルでの生活は大変だったが
それよりも非常勤講師としての不安定な経済基盤、劣悪な住宅事情
電話もない、暖かい風呂もない、共同生活者との生活での台所やトイレの利用の困難さ
など毎日の苦労とたたかい、韓国人の押しの強さと詮索好きにへきえきし、それでも
8年以上も生活して、韓国の友人も得て、実りある韓国生活から帰国する。

ここで印象に残ったのは
それを知っている在日韓国人は乗らないというJR仙山線のことでした。
仙山線は枕木一本に朝鮮の人が一人死んだという難工事だったようです。

今年1年なるべく東北のローカル線に乗ろうとこころがけ、できるだけたくさんのローカル線に乗ったのは
学生時代に鉄道工学を勉強したので、日本の条件の悪い地形に、無理なくSLを走らせるための勾配とかカーブの曲線半などを考えながら、トンネルを掘ったり、橋梁を架けていった技術者の苦労を思ってみることもしたかったのです。
もちろん大雨の崖崩れとか、豪雪地域の雪崩対策などという保線技術者の苦労の様子も見て回りたかったのでした。

しかし、鉄道建設の工事現場の苦労は大変なもので、鉄道がないから当然ながら交通も不便で、だから食料も、娯楽も、医療も整っていないところに、開拓者の苦労をして建設労働者たちは命をかけて鉄道を作っていったのです。
北海道の道路や鉄道はそんなわけで、いくつも悲惨な話が残っています。
たとえば、某トンネル工事は過酷な労働下のもとにやっと完成したので、深夜で車を走らせるとバックミラーにダイナマイトで落盤事故死した労働者の血をあびた恨めしそうな顔が浮かび上がるとか。

そういう建設工事の労働者は、明治の反政府活動をした政治犯とか犯罪者たち、わかりやすく言えば囚人たちが非人間的な扱いをうけながら、道路や鉄道建設にかりだされたのでした。

そして、朝鮮半島や中国大陸からきた人たちの悲惨な労働によって
道路や鉄道がつくられていったということは、概略としては感じていましたが
具体的にいつ頃、どんな人たちが連れてこられて、命がけでした仕事だったかということはわかりません。

仙山線ができた時期から推定されるように、東北・北海道の鉄道の歴史を調べれば、なんとなくそういうことが推定できそうですね。


[No.14993] Re: ソウル、韓国語世界への旅 投稿者:   投稿日:2010/03/28(Sun) 12:29
[関連記事

 男爵さん、まいど。

> 一週間後の韓国行きのため、イメージトレーニングです。

 No14623、を念の為、もう一回、見てから行って貰ったら、ありがたおますわ。
 書いて有ることも、ええけど、科学的裏付けも、必要でっせ。

                          Toshichan in Kyouto-fu