一週間後の韓国行きのため、イメージトレーニングです。
この本は、韓国で日本語教師をしたり、ソウルの大学院で韓国の文学を研究した 青森出身の女性の本です。 彼女は仙台在住です。
1982年8月に韓国に渡った著者は 教科書問題で最も反日的だったソウルでの生活は大変だったが それよりも非常勤講師としての不安定な経済基盤、劣悪な住宅事情 電話もない、暖かい風呂もない、共同生活者との生活での台所やトイレの利用の困難さ など毎日の苦労とたたかい、韓国人の押しの強さと詮索好きにへきえきし、それでも 8年以上も生活して、韓国の友人も得て、実りある韓国生活から帰国する。
ここで印象に残ったのは それを知っている在日韓国人は乗らないというJR仙山線のことでした。 仙山線は枕木一本に朝鮮の人が一人死んだという難工事だったようです。
今年1年なるべく東北のローカル線に乗ろうとこころがけ、できるだけたくさんのローカル線に乗ったのは 学生時代に鉄道工学を勉強したので、日本の条件の悪い地形に、無理なくSLを走らせるための勾配とかカーブの曲線半などを考えながら、トンネルを掘ったり、橋梁を架けていった技術者の苦労を思ってみることもしたかったのです。 もちろん大雨の崖崩れとか、豪雪地域の雪崩対策などという保線技術者の苦労の様子も見て回りたかったのでした。
しかし、鉄道建設の工事現場の苦労は大変なもので、鉄道がないから当然ながら交通も不便で、だから食料も、娯楽も、医療も整っていないところに、開拓者の苦労をして建設労働者たちは命をかけて鉄道を作っていったのです。 北海道の道路や鉄道はそんなわけで、いくつも悲惨な話が残っています。 たとえば、某トンネル工事は過酷な労働下のもとにやっと完成したので、深夜で車を走らせるとバックミラーにダイナマイトで落盤事故死した労働者の血をあびた恨めしそうな顔が浮かび上がるとか。
そういう建設工事の労働者は、明治の反政府活動をした政治犯とか犯罪者たち、わかりやすく言えば囚人たちが非人間的な扱いをうけながら、道路や鉄道建設にかりだされたのでした。
そして、朝鮮半島や中国大陸からきた人たちの悲惨な労働によって 道路や鉄道がつくられていったということは、概略としては感じていましたが 具体的にいつ頃、どんな人たちが連れてこられて、命がけでした仕事だったかということはわかりません。
仙山線ができた時期から推定されるように、東北・北海道の鉄道の歴史を調べれば、なんとなくそういうことが推定できそうですね。
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