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[No.14931] ゆとりとは 投稿者:男爵  投稿日:2010/03/17(Wed) 10:56
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時のしるし 土居健郎 ティビーエス・ブリタニカ

生産技術研究所の原広司教授の講演「建築のゆとり」
 原広司教授は東大教授の後 国際基督教大学教授など歴任

住居のゆとりというのは、住居の内側と外側の間に境があるようでないというか、
両者の間にある種の透過性がある場合に成立する。
原教授はこのことを日本建築の和室やその他外国の例をあげて説明した。
ゆとりには、境があるようでないという点が味噌である。
境があるだけでも境が全然なくても「ゆとり」は生まれない。
たくさんの時間や空間やお金があっても、それだけでは
「ゆとりがある」ことにはならないのである。
一見つまっているように見えて、もっとつめればそこにすき間が
あくという状態こそゆとりである。
だからまさに「忙中閑」である。忙だけでも、閑だけでも
ゆとりにはならない。忙中閑だからこそゆとりなのである。

これを要するに、ゆとりというのはある種の曖昧さを前提にしている
ということができる。私は前に「遊びと真面目の間に、あるいは
自由と制限の間に、ある絶妙のバランスを保っておられるのがゆとりである」
という文章を書いたが、これも同じような精神をあらわしている。
どうも巷間ではゆとりというとすぐに豊かさを連想するようだが、むしろ
反対に貧しさの感覚が潜在しないとゆとりは生まれてこないように思う。
なぜなら貧しくともけちでないのがゆとりだからである。
したがって心にゆとりがあるというのは、心が多くのもので一杯に
なっていることではなく、心にすき間が作れるということである。
すき間があると外からの働きかけに応えられる。
このことを考えているとき、私はパスカルの次のような言葉を思い出した。
「人間の不幸というのは、みなただ一つのこと。すなわち部屋の中に
静かに休んでいられないことから起きる」たしかに部屋の中にひとりで
じっとていられるのは心にゆとりのある証拠だろう。ひとりでいると、
自分が空しく、貧しく、みじめであることがわかる。しかし、この感覚に
堪えられるのがゆとりである。これを消そうとして、いろいろ気晴らしに
手を出すと、本当の意味での心のゆとりは出てこないのである。

聖書の貧しいやもめの、有り金すべてを賽銭箱に入れる話
彼女こそ、貧しさがあって貧しさに拘泥しない。それを超えている。
これこそゆとりではないか。

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忙だけでも、閑だけでも ゆとりにはならない。
「忙中閑」だからこそゆとりなのである。

「遊びと真面目の間に、あるいは 自由と制限の間に、
ある絶妙のバランスを保っておられるのがゆとりである」

いい言葉だと思う。
真面目だけでもだめ。真面目だけでもだめ。
遊びと真面目の間に、実はゆとりがあり、よいアイデアがあるものである。


[No.15024] Re: ゆとりとは 投稿者:男爵  投稿日:2010/04/01(Thu) 15:48
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> 時のしるし 土居健郎 ティビーエス・ブリタニカ
>
> 忙だけでも、閑だけでも ゆとりにはならない。
> 「忙中閑」だからこそゆとりなのである。
>
> 「遊びと真面目の間に、あるいは 自由と制限の間に、
> ある絶妙のバランスを保っておられるのがゆとりである」

ゆとり教育が見直されて
教科書も教える内容も変わりました。
(評判の悪かったゆとり教育)

そもそも、ゆとりとは
忙しい中にも余裕を見つけること。
忙しくなく、することも少ないときは、ゆとりも生まれない。
そのことに気がつくのに長い年月がかかった。
文部省のゆとり教育を考えて決めた人はもういないでしょう。
責任をどうとるつもりだったのか。