> > 多胡輝の本
(そういうわけで、書き上げた長文が一瞬にして消失する対策として、こまめに書いたらアップすることにします。二度アップしたので、あとは補足みたいなものでおしまいにします)
独自性を保つための情報の切り捨て 著者は講演会の依頼を受けて全国を歩くことが多いのだが、そこに集まってくる高齢者がここ数年でずいぶん変わってきたという。昔は地方の講演に出かけていくとムスッとして不機嫌に見える人ばかりで笑わせることにほんとうに苦労したが、最近ではよく笑うようになってワイワイ楽しんで帰ろうという人が多くなったという。これは、それだ生活の中に新しい情報がはいってきていて、それが彼らを刺激しているということであろう。 よく笑ってくれるようになったのは、非常にけっこうなことだと思いつつ、これ以上の刺激はむしろマイナスではないかと思うことがある。これからの大きな一つのテーマは、パソコンやインターネットと、どう対峙していくかということであるが、地方の行政が音頭を取って高齢者にパソコンを教えているところまで現れている(この本は2003年の本なので、ここに書かれてあることは時代にもうすでに反映されていることがしばしばある)。 こうした情報化社会では、ありとあらゆる情報が世代や環境を越えて平等に提供されるようになってきている。そして、これは他でも言われることであるが、地域独特の特徴が失われ、どこで切っても同じ絵柄で出てくる金太郎飴のようになってしまうことになる。 多すぎる情報はかえって頭を混乱させ、選択肢を誤るもとになる。この著者も依頼される後援会の数が多いと自分のペースが乱され個性を生かせなくなるから、分相応な範囲にとどめておきたいと考えている。 秋山真之はものすごい読書家だったそうであるが、およそ蔵書を持たなかったという。「実戦に臨んだとき、いちいち本をひもといているわけにはいかない。必要なことは頭の中に入れておかなければいざというとき何の役にもたたない」というのが彼の持論であった。
人生、「反骨精神」より「軟骨精神」がいい 著者が自分の生き方を例にあげて中途半端な生き方を勧めると、それを八方美人的な生き方と混同されることがあるという。しかし、ファジーでバランス感覚を何よりも重視した生き方は、八方美人的な生き方とは全く違うものである。八方美人というのは、みんなにいい顔をして誰とでも調子よくつきあうことをいうが、バランス感覚というのは、言ってみれば信じつつ疑い、疑いつつまた逆のほうからの見方を忘れない生き方なのである。 ふつう反骨精神というと、命をかけて頑張ってしまうことを連想しがちだが、反骨精神の発揮の仕方はいろいろあっていいと思う。あの戦争中にまともに権力にぶつかっていった人々はほんとうに偉いと思う。官憲に追われながらも生き方を貫いた思想家徳田球一や志賀義雄などは尊敬に値する人物だと思う。しかし、自分の主張を通すための道は一本だけではない。偉いなとは思うが著者はその道を選ばなかった。 著者は、江戸時代におけるキリシタン弾圧に対しても同じような思いを馳せる。当時のキリシタンたちは、役人の差し出す踏み絵を踏まなかったばかりに地獄のような苦しみを味わって殺されていった。なぜ彼らは踏み絵を踏まなかったのであろうか。ころびバテレンとさげすまれようと、横暴な役人に改宗を迫られようと、心の中にまで踏み込むことはできないのである。心の奥底に深く信仰を秘めておけばいいのではないか。この著者が当時の宣教師だったとしたら、おそらく信者たちに踏み絵くらい踏んでも信仰の強さが弱まることはないと言ったのではないかと書いている。 固い反骨精神で生きるより、軟骨精神で生きる方が実は難しい面がある。その場その場で姿を変えて、しかもゆずれない部分はしっかりと守っていかなければならないからである。ひところの社会党のように、姿を変えているうちに自分をなくしてしまっては元も子もない。 軟骨精神はある種のしたたかさを持っているようなものである。たとえれば、どんな色に変えても実態には変化のないカメレオンのような生き方とも言えるであろう。
「損しているようで実は得をしている」人間になる ある父親が息子にこんな話をして、成功する人間と努力が報われない人間との区別をしたという話を聞いたことがある。 「たとえば、電車に乗ったとき目の前の席が空いたとする。そのあいた席にいち早く座って、どうだと言わんばかりに腕を組んで得意そうに見回す人間もいれば、周囲を見回してから遠慮がちにひっそりと座って、悪いことでもしたかのように、下を向いてしまう人間もいる。人生で成功するのは、得意になっている人間だ」 しかし、はたしてそうだろうか。著者はそうは思わない。早い話何か得になるものはないかと、つねに抜け目なく目配りを怠らない人間は、たいてい嫌われ者になる。同じ老人でも、電車に乗ってきたとき、いかにも席を譲れという態度でキョロキョロされると、気持ちよく席を譲る気持ちを失った体験は、誰でも持っているだろう。 幼児の行動を観察していても、プレゼントの時間になるといち早く飛んで行って誰よりもいいものを獲得しようという子どもと、おずおずとそっとみなのうしろから行く子どもがいる。概して大人はそういう子どもが好きで、いいものをとっておいてあげたりするものである。 本当の生き方上手は、こうした物欲しげな態度をとらない人間ではないかと思う。お金を儲けるにしても、ギラギラとした欲望を鼻先にぶら下げて歩いているような人間ではダメなものなのである。お金なんかどっちでもいいという態度をとられていると、思わずそれじゃ悪いからと出したくなるのが人情というものである。 保険や車などの分野で日本一のセールス名人が紹介されることがあるが、たいていの人は口下手で弁舌さわやかに商品の宣伝をするタイプではないようである。口下手な人間は聞き上手というから、それもうなずけないことではない。もしかすると、彼らはそれをかなり意識的にやっているのかもしれない。
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