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[No.14988] わずかな頭の切り替え方 投稿者:男爵  投稿日:2010/03/28(Sun) 08:30
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多胡輝の本

問題にのめり込んだときは、棚上げにするか幕を引いて終わりにしたほうがいい
 恋愛の最中にいる若い人びとに、いくら口をすっぱくして「三十パーセントの覚めた目をもちなさい」と言ってみてもムダである。だが、とんでもない破滅の道を歩まないために、著者はこの言葉を言いつづける。全体を見渡す目や先を見通す目は、どんな場合にも必要だと思うから。
 覚めた目をもっていれば、ドン・ホセも、ジプシー女のカルメンにいれあげたあげく、彼女の口車に乗せられて、密輸業者の仲間にまで加わってしまうような身の破滅を招くこともなかったであろう。
 ベストセラーで映画にもなり、テレビでも放映された「失楽園」もそうである。最後に二人は毒をあおって心中するのだが、中年男女の心中の場などどれほど美辞麗句をつらねてみても美しくはない。映画評論家淀川長治はどんなつまらない映画でもいいところを発見しようとしたが「失楽園」は嫌いだと断言していた。室内で心中するのに、死体を始末する人のことを考えていないというのである。「まくら元に迷惑料くらいは置いておけと言いたい」とはホテル住まいの淀川長治が毎晩そう心がけているから。
 恋愛の問題に限らず、自分が何かにのめり込んでいると感じたときは、問題の途中でも棚上げをしてしまって、一回幕引きをしてみることは大事なことである。

気分が落ち込んでいるときは、ことさら派手にふるまう
 この著者は若いときからよくまわりの人たちに「先生、今日はまたずいぶん派手なシャツですね」とか「オシャレなネクタイですね」と言われたという。著者が派手に見える恰好をしていることがあるが、それはおしゃれでそうしているわけではないという。ふだんと違う派手な恰好をする一番の目的は、それによって気持ちを明るくし、スランプを脱出することにあるのだという。
 スランプになると誰でも気分が落ち込み、それが長く続くと仕事にも影響が出てくることにもなる。そういうときはいかに早くそうした状態から脱出するかが大事になる。この著者は、気分を明るくしようとして、派手な恰好をするのである。そして軽快な足取りで歩くようにし、人としゃべるときもジェスチャーたっぷりにおおきな声でしゃべるように務めるという。こうするといつの間にか元気が出て、スランプから抜け出すものである。

とりあえず行動に移してみると、解決策は見えてくる
 仕事柄これまで何十年も著者は原稿を書いてきたので、普通の人よりは書くことに慣れっているはずであるが、それでもなかなか進まないことが時々あるという。ああでもない、こうでもないと頭の中だけで考えていると収拾がつかなくなってしまうのである。
 そんなときには、とりあえず第一稿を書いてみることである。もちろん第一稿なので文章の体をなしていなくてもいいわけであるから、思いつくままにどんどん書いていくのである。そうすると、やがて問題点が見えてきて考えが整理され、構想もまとまってくる。それをたたき台にして本稿を書けばいいので、これは問題点が見えなくて困ったときにはいい方法である。


[No.14989] Re: わずかな頭の切り替え方 投稿者:男爵  投稿日:2010/03/28(Sun) 09:21
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> 多胡輝の本
   (実はこの書き込みは一度失敗して再度の挑戦です。長い文章を書き上げたところで全部パーになってしまったら気落ちするところだが、逆にファイトがわいて、長文を一気にアップするより安全にこまめに少しずつアップする方法をとることにします)

世の中には、視点をちょっと変えるだけで解決できることが多い
 ちょっと前に見かけたのにデスクの上に置いたはずの書類が、いくら探しても見つからないことがある。重要な書類だから大切にしておかなければならないと思って注意していたのに、いざ必要という段階になったらどうしても出てこないことがある。
 とうとうあきらめて、別の仕事をしながらふとデスクの上を見ると、あれほど探しても出てこなかった書類があるではないか。あんなに探したのに不思議なことだ。まるで誰かがいたずらして隠したみたいである。
 こんな意見は誰でもあるだろう。そして賢い人は、そのことをよく知っているので、ムダな時間を使わずに一度あきらめ、時間をおいて再び探すという。
 最後には目の前で見つかったとしても、一生懸命に探しても見つからないのは、まわりのことがまったく目に入らなくなっているからである。「どこだろう、どこだろう」と目的にものだけに集中しているため、周囲の状況が目に入らなくなり視野が狭くなっているわけなのだ。
 一度探すのをやめ、ちょっと時間をおいてから再び探すと、今度は全体の状況がよく見えるようになるのである。したがって、捜し物もすぐに見つかるというわけである。
   【押してもダメなら引いてみな。押しても引いてもダメなときは障子のように引き戸だった】

面倒なこと、時間のかかりそうなことはどんどん切り捨てる「棚上げ人生」のススメ
 この著者には子どもがいない。できなかったのではなく、妻と相談して意識的に子どもを持たなかったのだという。どうしてかといえば、子どもに全精力を注ぎ込みたくなかったから。子どもは好きなのだが、それゆえ子どもがいたら、子どものためにほとんどすべての時間を犠牲にしてしまうおそれがあると考えたのである。子どもがいれば、やれ病気だ、受験だ、就職だと気もつかうだろうが、そんな心配もない。自分の仕事に専念できると著者は考えた。
 我々に与えられた時間は有限である。著者はだから与えられた時間を目いっぱいに使おうと思って、要領よく生きて時間をうまく使おうと考えたのである。
 あれもこれもと手を広げるのではなく、捨てられるものはできるだけ捨ててしまい、自分がほんとうに興味を持てるテーマだけにしぼってきたという。

睡眠の常識を覆すと、意外な「宝の時間帯」が見つかる
 人生に与えられた時間をいかに有効に使うか。これには、目覚めている時間を有効に使うか、あるいは睡眠時間を減らすかしか方法はない。
 目覚めている時間の効率を高めるということは、要するに自分が一番頭がさえる時間は起きていて、その間にもっとも集中力が要求されるようなことをやるということである。
 著者の行っているのは「分眠法」という、時間を細かく分けて眠る方法である。仮に一日六時間眠るとしても続けて六時間眠るのではなく、三時間ずつに分けて二度眠るとか、二時間ずつ三回に分けて眠るという方法である。
 この方法は忙しい著者が必要に迫られてたどりついた方法らしい。新聞の仕事をしていたとき、どうしても朝くらいうちから起きなければならないことがあった。はじめは徹夜して朝まで起きていて、仕事が終わってから寝ていたのだが、それではどうしても疲れてしまう。そこで徹夜は止めて、仕事に疲れたら横になってすぐ眠るようにした。といっても何時間も眠り続けるのではなく、一時間眠ることもあれば十五分くらい眠ったら起きてまた仕事を続けることもあった。そうしているうちに、全部あわせて一日に六時間なら六時間眠ればそれで疲れないし睡眠不足にもならない体になってきたのである。
 体験的につくりあげた著者の分眠法であったが、お医者さんからそれは「分眠法」であって非常に合理的な方法であるとお墨付きをもらってから自信を持って続けているという。
 あのナポレオンもトータル睡眠時間を守りつつ、戦場でいつ、どこででも眠られるときは分割して眠っていたらしい。


[No.14991] Re: わずかな頭の切り替え方 投稿者:男爵  投稿日:2010/03/28(Sun) 10:41
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> > 多胡輝の本

   (そういうわけで、書き上げた長文が一瞬にして消失する対策として、こまめに書いたらアップすることにします。二度アップしたので、あとは補足みたいなものでおしまいにします)

独自性を保つための情報の切り捨て
 著者は講演会の依頼を受けて全国を歩くことが多いのだが、そこに集まってくる高齢者がここ数年でずいぶん変わってきたという。昔は地方の講演に出かけていくとムスッとして不機嫌に見える人ばかりで笑わせることにほんとうに苦労したが、最近ではよく笑うようになってワイワイ楽しんで帰ろうという人が多くなったという。これは、それだ生活の中に新しい情報がはいってきていて、それが彼らを刺激しているということであろう。
 よく笑ってくれるようになったのは、非常にけっこうなことだと思いつつ、これ以上の刺激はむしろマイナスではないかと思うことがある。これからの大きな一つのテーマは、パソコンやインターネットと、どう対峙していくかということであるが、地方の行政が音頭を取って高齢者にパソコンを教えているところまで現れている(この本は2003年の本なので、ここに書かれてあることは時代にもうすでに反映されていることがしばしばある)。
 こうした情報化社会では、ありとあらゆる情報が世代や環境を越えて平等に提供されるようになってきている。そして、これは他でも言われることであるが、地域独特の特徴が失われ、どこで切っても同じ絵柄で出てくる金太郎飴のようになってしまうことになる。
 多すぎる情報はかえって頭を混乱させ、選択肢を誤るもとになる。この著者も依頼される後援会の数が多いと自分のペースが乱され個性を生かせなくなるから、分相応な範囲にとどめておきたいと考えている。
 秋山真之はものすごい読書家だったそうであるが、およそ蔵書を持たなかったという。「実戦に臨んだとき、いちいち本をひもといているわけにはいかない。必要なことは頭の中に入れておかなければいざというとき何の役にもたたない」というのが彼の持論であった。

人生、「反骨精神」より「軟骨精神」がいい
 著者が自分の生き方を例にあげて中途半端な生き方を勧めると、それを八方美人的な生き方と混同されることがあるという。しかし、ファジーでバランス感覚を何よりも重視した生き方は、八方美人的な生き方とは全く違うものである。八方美人というのは、みんなにいい顔をして誰とでも調子よくつきあうことをいうが、バランス感覚というのは、言ってみれば信じつつ疑い、疑いつつまた逆のほうからの見方を忘れない生き方なのである。
 ふつう反骨精神というと、命をかけて頑張ってしまうことを連想しがちだが、反骨精神の発揮の仕方はいろいろあっていいと思う。あの戦争中にまともに権力にぶつかっていった人々はほんとうに偉いと思う。官憲に追われながらも生き方を貫いた思想家徳田球一や志賀義雄などは尊敬に値する人物だと思う。しかし、自分の主張を通すための道は一本だけではない。偉いなとは思うが著者はその道を選ばなかった。
 著者は、江戸時代におけるキリシタン弾圧に対しても同じような思いを馳せる。当時のキリシタンたちは、役人の差し出す踏み絵を踏まなかったばかりに地獄のような苦しみを味わって殺されていった。なぜ彼らは踏み絵を踏まなかったのであろうか。ころびバテレンとさげすまれようと、横暴な役人に改宗を迫られようと、心の中にまで踏み込むことはできないのである。心の奥底に深く信仰を秘めておけばいいのではないか。この著者が当時の宣教師だったとしたら、おそらく信者たちに踏み絵くらい踏んでも信仰の強さが弱まることはないと言ったのではないかと書いている。
 固い反骨精神で生きるより、軟骨精神で生きる方が実は難しい面がある。その場その場で姿を変えて、しかもゆずれない部分はしっかりと守っていかなければならないからである。ひところの社会党のように、姿を変えているうちに自分をなくしてしまっては元も子もない。
 軟骨精神はある種のしたたかさを持っているようなものである。たとえれば、どんな色に変えても実態には変化のないカメレオンのような生き方とも言えるであろう。

「損しているようで実は得をしている」人間になる
 ある父親が息子にこんな話をして、成功する人間と努力が報われない人間との区別をしたという話を聞いたことがある。
「たとえば、電車に乗ったとき目の前の席が空いたとする。そのあいた席にいち早く座って、どうだと言わんばかりに腕を組んで得意そうに見回す人間もいれば、周囲を見回してから遠慮がちにひっそりと座って、悪いことでもしたかのように、下を向いてしまう人間もいる。人生で成功するのは、得意になっている人間だ」
 しかし、はたしてそうだろうか。著者はそうは思わない。早い話何か得になるものはないかと、つねに抜け目なく目配りを怠らない人間は、たいてい嫌われ者になる。同じ老人でも、電車に乗ってきたとき、いかにも席を譲れという態度でキョロキョロされると、気持ちよく席を譲る気持ちを失った体験は、誰でも持っているだろう。
 幼児の行動を観察していても、プレゼントの時間になるといち早く飛んで行って誰よりもいいものを獲得しようという子どもと、おずおずとそっとみなのうしろから行く子どもがいる。概して大人はそういう子どもが好きで、いいものをとっておいてあげたりするものである。
 本当の生き方上手は、こうした物欲しげな態度をとらない人間ではないかと思う。お金を儲けるにしても、ギラギラとした欲望を鼻先にぶら下げて歩いているような人間ではダメなものなのである。お金なんかどっちでもいいという態度をとられていると、思わずそれじゃ悪いからと出したくなるのが人情というものである。
 保険や車などの分野で日本一のセールス名人が紹介されることがあるが、たいていの人は口下手で弁舌さわやかに商品の宣伝をするタイプではないようである。口下手な人間は聞き上手というから、それもうなずけないことではない。もしかすると、彼らはそれをかなり意識的にやっているのかもしれない。