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[No.14998] なぜ人を殺してはいけないのか 投稿者:男爵  投稿日:2010/03/29(Mon) 11:51
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小浜逸郎著   洋泉社   2000.7

「なぜ人を殺してはいけないのか」
これに続く質問は
「死刑は廃止すべきか」
などいろいろあり、それらの質問をこの本では扱っていますが
ここでは
「なぜ人を殺してはいけないのか」について考えてみましょう。

このテーマはなかなか重いテーマです。
人によって答えはいろいろありそうです。
この著者は某国立大学工学部の卒業ですが批評家です。そして、そういう著書が多いです。

まず、思いつくのは
会津若松駅における「ならぬことは ならぬものです」の言葉です。
とにかく、いけないことはいけないのだ。
http://www.akina.ne.jp/~ichi/nn/index.html
瀬戸内寂聴さんも同じような言い方をしています。
人間として、していけないことは決まっているでしょう。
それをいちいち説明する必要などありません。
 あなたは人間なのだから、人間として、してはいけないことはいけないのです。

それでは
この本ではどう説明しているか考えてみましょう。
ひとときマスコミなどでとりあげられたこのテーマに関する知識人たちの議論を聞いていて
著者はこの「倫理問答ブーム」に対して不愉快な気持ちをいだいたようです。
それを見ていると、必要もないのにただの議論ゲームや言葉遊びをしているという印象を持ったようです。

こういう問いを切実に必要としている人は限られている。本当に人を殺してしまったか、未遂であったものの、深刻な殺意を抱いていたことがあって、そのことを内在的に問うようなモチーフをもった人、倫理的な問いや哲学的な問いに深くつかまってしまう傾向を持ち、その問いにどこまでもくらいつくに十分な心構えと思考力をもった人、などである。

著者には、この問いを発した若者自身や、それを持ち上げ支えた周囲の若者たちが、これらの動機を持っているとは考えられなかったし、またその問いに対して自力で答えをひねり出そうとするだけの気力の持ち主であるとも思えなかった、おそらくただ、倫理規範が揺らいでいるという時代の気分に後押しされて、ナイーブに、または大人を軽く挑発する意図から、ふとこんな問いを出してみた、といったところが真相だろう。

だから著者は、この話を聞いたとき、逆に若者に二つのことを問い質してみたかったという。
1. 君は、ほんとうに君自身の切実な必要からその問いを絞り出しているのか。だとすればそれはどんな必要か。君はどんな経済的な契機や精神的な契機からその問いにぶつかったのか。それを聞いたうえで、それに応じた答えを考えることにしよう。
2. 君は、その問いを発したものとして、倫理や道徳の起源と系譜について真剣に考え続けていくだけの心の用意があるのか。もし本当にあるのなら私と一緒に考えていくことにしよう。

事実、この問いは、本気で発せられたのなら、こうした問い質しを行って、きちんと考えていくための共通了解を持つ必要のある問いである。だがそれがもてないのなら、はじめからこんな問いを出すのはやめたほうがいい。人は普通、別にこんな問いを突き詰めなくても、ある共同体のなかに「汝、殺すべからず」という掟が実質的に機能していさえすれば、その共同体の成員として掟を守ることで十分に生きていけるのである。

 このあと、世に発表されたいくつかの答えを紹介して、それらはいずれも不十分であると著者は解説するのですが、長くなるし、詳しく知りたい方はこの本を読んでください。
 ということで強引に結論にいきます。

こうして「人を殺してはならない」という倫理は、倫理それ自体として絶対の価値を持つと考えるのではなく、また、個人の内部に自らそう命じる絶対の根拠があると考えるのでもなく、ただ共同社会の成員が相互に共存を図るためにこそ必要なのだという、平凡な結論に到達する。


[No.14999] Re: なぜ人を殺してはいけないのか 投稿者:   投稿日:2010/03/29(Mon) 12:56
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 男爵はん。まいど。

> 小浜逸郎著   洋泉社   2000.7
>
> 「なぜ人を殺してはいけないのか」

> こうして「人を殺してはならない」という倫理は、倫理それ自体として絶対の価値を持つと考えるのではなく、また、個人の内部に自らそう命じる絶対の根拠があると考えるのでもなく、ただ共同社会の成員が相互に共存を図るためにこそ必要なのだという、平凡な結論に到達する。

 共存をはかるために、戦争でも、何でも許されるわけやなあ???
 それが、平凡な結論でっか??


                               Toshichan in Kyouto-fu


[No.15001] 他人に迷惑をかけなければ何をやってもよいのか 投稿者:男爵  投稿日:2010/03/29(Mon) 21:57
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> 小浜逸郎著   洋泉社   2000.7

つぎは
「他人に迷惑をかけなければ何をやってもよいのか」
です。

ここでも
著者は丁寧に議論をつめています。
それをいちいち書くと長くなるから、私の独断で一部を紹介します。
詳しく知りたい方はこの本を読んでください。

「他人に迷惑をかけない限り人は自由に自分の欲望を満たしてもよい」というのは、近代自由主義社会の原則である。この原則は、それ自体としては文句のつけようがない。
そして現代のように個人主義の浸透した都市社会では、もろもろの「掟」や「...すべし」が、その根拠をさらわれつつあるので、社会で生きていくための倫理的な指針としては、この原則だけが唯一リアリティのあるものとして感じられるようになっている。

だが、第一に踏まえておかなくてはならないことは、この原則は、社会的なルール感覚や人と人との間を結ぶ絆を培うための必要最低限の条件にすぎず、けっしてそれらを充実した豊かなものにさせることにとって十分な条件ではないということである。

たとえば、援助交際をやっている女子高生の中には、その非を責められると「誰にも迷惑かけてないんだからいいじゃん」と答える子がいるという。これに対して、大人たちは、明確な論拠を持って「いけない」と言い返すことができない。
女子高生本人は、自分の行為は人から強制されたものではなく「自己決定」に基づくものであり、しかもそれが他人の権利を侵害していないということであって、それなりに現代の人権社会の基本原則を直感的に踏まえたものになっているから、理論的にはいいじゃないかと思うかもしれない。

しかし、ここには考えるべき問題が大きくいって二つある。一つは、援助交際の正当性を言い立てている主体が未成年であることにどういう問題がつきまとうかということ、そしてもう一つは、人間関係の動向は必ずしも「迷惑」という範疇には属さないような心理的影響によって左右されることが多く、人は生きていくためにそのことに配慮せざるをえないということである。

援助交際をやっている女子高生にしても、親に知られてもまったく平気というケースは例外中の例外に属するであろう。また普通の親なら、それを知って平気でいられるなどということはまずありえないだろう(たとえ自分がそういう世界を生きてきた親でも、子どものことになると許せない、そんなことは絶対させたくないと感じるのが人情である)。子どものほうもそのことを気にして、親に知られないように秘密に行う。

 ということで強引に結論にいきます。

「他人に迷惑をかけなければ何をやってもよいのか」という問いに対してイエスと言えるのは「他人」というのが、自分と直接につきあい関係にない一般的な他者、自分もその一員としての抽象的な「市民」を指す場合であって、この命題の全体が、ただ市民社会的な公共性の原理、法的な原理を示す場合に限られる。人間はそういう原理の及ばない私的な生活感情の領域を身近な他者と共存している。その領域においては、「迷惑」という概念でその悪影響を言い尽くすことはできず、したがってこの命題はかならずしも通用しない。そこで、人倫の原則としては「他人に迷惑をかけてはならない」という命題だけではなく、「自分と直接的なかかわりあいのある身近な他者をさしたる理由もなく怒らせたり悲しませたりするべきではない」という命題を付け加えるべきであろう。

  ーーーーーーーーーーーー
ふと思ったのは
反抗期の青年が、親を批判して、親の期待や指示にそむいて出て行ってしまう。
それから時間が流れ、その青年もいつしか親となったとき、もう死んでしまった親に対して、自分も親になってみて、当時の心境が変わるかもしれない。迷惑をかけてしまったと反省するかもしれない。(親は死んでしまって、後悔しても、もう遅いのだが)

あの武田鉄矢は教育大学を中退してしまうが、ずっと卒業することを期待して親は授業料を送り続けたという。それはムダになってしまったわけだ。
後に彼は芸能人として成功し、ドラマ金八先生役として教育界にも大いに影響を与え
稼いだ数百万円を母親に渡したところ、母親は深く感謝して、それを神棚に上げたそうな。
それ以後、母親は息子の支持者としての姿を演じつづけた。
この親子の間には相当の葛藤があり、迷惑をかけたという事実が当事者の認識としてはあったと思われるが、その後の息子の芸能人としての活躍は、成功した親子関係というイメージに定着した可能性は高い。  世の中、結果オーライという面もある。


[No.15003] 死刑は廃止すべきか 投稿者:男爵  投稿日:2010/03/30(Tue) 10:34
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> > 小浜逸郎著   洋泉社   2000.7

つぎは
「死刑は廃止すべきか」
です。

これはまず結論を書きましょう。
著者の回答は、死刑は社会の運用上必要である
ということです。

死刑を法的に廃止することは「何をやっても殺されることはないのだ」という考え方を、社会の側から公式に基礎づけてしまことになる。
もちろん、死刑を廃止することによって凶悪な殺人が増加するということは証明できないのだが、たとえ増加しないとしても、そういう考え方を基礎づけてしまうことは、人間社会全体から究極責任の考えを抜き去り、最終的には人倫の内的な秩序を崩していくことにつながると考えられる。「万死に値する行為」の概念を人間は捨てないほうがいい。

死刑判決は、それがふさわしい場合、宣告されたものの実存を、自分はそういう存在であるという自己確認の意識のうちに限定する。一部の人がそれによって、自分が何をやったのかを知り、初めて罪を悔いる心境に目覚めることも事実であって、人間は自らの尊厳のためにこそ、そういう実存的な状況に導く契機というものも具備しておくことが必要である(むずかしい文章ですね。死刑と判決された者もそうでない者も、自分のした行為と判決の重みを認識するために死刑は必要というのです)。

凶悪犯人が裁判にかけられ、肉親を殺された怒りと悲しみでいっぱいの被害者遺族から、判決は軽すぎる、極刑を望むという声がさかんに聞かれる反面
死刑制度があっても凶悪犯罪は減らない、犯罪を抑止する効果はないのだし、外国では死刑廃止の国が多い。残酷な死刑は廃止すべきだという意見もあります。

この著者は、ひとつひとつの意見を取り上げて、それについて議論を進めていきます。
それを全部解説するのは長すぎるし、私にも能力がありませんから、さわりだけ紹介します。くわしく知りたい人は、どうぞこの本をお読みください。

前項であつかったように
「なぜ人を殺してはならないのか」という問いが倫理の根幹に触れる問いとして成立し、しかもそれに対して絶対的な根拠を持つ答えが見出せるなら
「いかなる理由があれ、人は人を殺してはならぬ」という原理が人間社会に絶対的に確立されたことになる。そうすれば「死刑は廃止すべきか」という問いは無用のものになる。なぜなら、死刑は公権力による殺人であるから、いやしくも正義を代表するはずの公権力が「人は人を殺してはならない」という絶対的な倫理に背くことなどしてはならないはずだから。

だが前項で論じたとおり「人を殺してはならない」という倫理は、共同体全体とそれを構成する個々の成員の存続のために歴史的に作られてきたものであり、したがってそれは相対性を完全に免れるというわけにはいかない。私たちは「なるべくなら人を殺さないほうがよい」という現実的な知恵の指し示すところに従い、今も歴史の中で、この知恵のより完全な実現に向かって努力する過程を歩みつつあるとしか言えないのである。

さてそうだとすると「死刑は廃止すべきか」という問いは、依然として根本から考えるに値する問いである。というよりも、このような問いが未解決のままになお論議されているという事実そのものが、逆に「人は人を殺してはならない」という原理が人間社会に絶対的に確立されているわけではない一つの例証となっている。

死刑制度は、いわゆる先進国では、アメリカと日本を除いて、ほぼすべての国が廃止にふみきっている。こんなところから、死刑廃止論者は、日本も廃止にすべきだというのだが
なお世界をよく見ると、死刑制度がしっかり残っている国は多い。とくにアジアの主要国家にはほとんどすべて死刑制度はあるのだ。
(死刑制度を全面的に廃止した国68カ国 通常犯罪のみ死刑制度廃止した国14カ国 10年以上執行していない国23カ国 死刑制度の存置の国90カ国)
中国、韓国、インド、ロシア、およびすべてのイスラム国家には死刑制度はしっかりと存在する。
死刑制度の存廃にかかわる意識には、その地域の文化的宗教的な伝統が深く関係しているのだ。たんに主要先進国が廃止しているから日本も右に倣えというのは思慮の浅い考え方である。

処刑の実態を見たら残酷で見るに耐えないから、死刑は廃止すべきだということを言う人がいるが、それなら周りのものにとってできるだけ残虐と感じられないような、また本人もできるだけ苦しみが少ないと思われるような処刑方法を案出すればよい話である。

死刑されることが残虐でかわいそうだというのなら、被害者が味わわされた残虐さや悲しみはどう考えるのだという水掛け論を呼び込むことになる。こうなると好き嫌いの感情論のレベルになってしまう。

死刑廃止論者が必ずとりあげる論拠として、人間の捌きには誤判がつきもので、冤罪の可能性は避けられないから、とりかえしのつかない刑罰である死刑はやめるべきものだというのがある。
冤罪の可能性をどう避けるかは、法的な手続きの厳正さの問題であって、「死刑廃止」を原理的に主張するための根拠にはなりえない。たとえ実際に冤罪事件があり、再審の結果逆転無罪になるケースがいくつも見られたとしても、そういう弊害を避けるために唯一なすべきなのは、誤りをゼロにするという理念の実現のために、捜査から判決までの全刑事過程を制度的、技術的、現実運用的にいかにきちんと整えてゆくかということであって、死刑を廃止することではない。