> > 小浜逸郎著 洋泉社 2000.7
つぎは 「死刑は廃止すべきか」 です。 これはまず結論を書きましょう。 著者の回答は、死刑は社会の運用上必要である ということです。
死刑を法的に廃止することは「何をやっても殺されることはないのだ」という考え方を、社会の側から公式に基礎づけてしまことになる。 もちろん、死刑を廃止することによって凶悪な殺人が増加するということは証明できないのだが、たとえ増加しないとしても、そういう考え方を基礎づけてしまうことは、人間社会全体から究極責任の考えを抜き去り、最終的には人倫の内的な秩序を崩していくことにつながると考えられる。「万死に値する行為」の概念を人間は捨てないほうがいい。
死刑判決は、それがふさわしい場合、宣告されたものの実存を、自分はそういう存在であるという自己確認の意識のうちに限定する。一部の人がそれによって、自分が何をやったのかを知り、初めて罪を悔いる心境に目覚めることも事実であって、人間は自らの尊厳のためにこそ、そういう実存的な状況に導く契機というものも具備しておくことが必要である(むずかしい文章ですね。死刑と判決された者もそうでない者も、自分のした行為と判決の重みを認識するために死刑は必要というのです)。
凶悪犯人が裁判にかけられ、肉親を殺された怒りと悲しみでいっぱいの被害者遺族から、判決は軽すぎる、極刑を望むという声がさかんに聞かれる反面 死刑制度があっても凶悪犯罪は減らない、犯罪を抑止する効果はないのだし、外国では死刑廃止の国が多い。残酷な死刑は廃止すべきだという意見もあります。
この著者は、ひとつひとつの意見を取り上げて、それについて議論を進めていきます。 それを全部解説するのは長すぎるし、私にも能力がありませんから、さわりだけ紹介します。くわしく知りたい人は、どうぞこの本をお読みください。
前項であつかったように 「なぜ人を殺してはならないのか」という問いが倫理の根幹に触れる問いとして成立し、しかもそれに対して絶対的な根拠を持つ答えが見出せるなら 「いかなる理由があれ、人は人を殺してはならぬ」という原理が人間社会に絶対的に確立されたことになる。そうすれば「死刑は廃止すべきか」という問いは無用のものになる。なぜなら、死刑は公権力による殺人であるから、いやしくも正義を代表するはずの公権力が「人は人を殺してはならない」という絶対的な倫理に背くことなどしてはならないはずだから。
だが前項で論じたとおり「人を殺してはならない」という倫理は、共同体全体とそれを構成する個々の成員の存続のために歴史的に作られてきたものであり、したがってそれは相対性を完全に免れるというわけにはいかない。私たちは「なるべくなら人を殺さないほうがよい」という現実的な知恵の指し示すところに従い、今も歴史の中で、この知恵のより完全な実現に向かって努力する過程を歩みつつあるとしか言えないのである。
さてそうだとすると「死刑は廃止すべきか」という問いは、依然として根本から考えるに値する問いである。というよりも、このような問いが未解決のままになお論議されているという事実そのものが、逆に「人は人を殺してはならない」という原理が人間社会に絶対的に確立されているわけではない一つの例証となっている。
死刑制度は、いわゆる先進国では、アメリカと日本を除いて、ほぼすべての国が廃止にふみきっている。こんなところから、死刑廃止論者は、日本も廃止にすべきだというのだが なお世界をよく見ると、死刑制度がしっかり残っている国は多い。とくにアジアの主要国家にはほとんどすべて死刑制度はあるのだ。 (死刑制度を全面的に廃止した国68カ国 通常犯罪のみ死刑制度廃止した国14カ国 10年以上執行していない国23カ国 死刑制度の存置の国90カ国) 中国、韓国、インド、ロシア、およびすべてのイスラム国家には死刑制度はしっかりと存在する。 死刑制度の存廃にかかわる意識には、その地域の文化的宗教的な伝統が深く関係しているのだ。たんに主要先進国が廃止しているから日本も右に倣えというのは思慮の浅い考え方である。
処刑の実態を見たら残酷で見るに耐えないから、死刑は廃止すべきだということを言う人がいるが、それなら周りのものにとってできるだけ残虐と感じられないような、また本人もできるだけ苦しみが少ないと思われるような処刑方法を案出すればよい話である。
死刑されることが残虐でかわいそうだというのなら、被害者が味わわされた残虐さや悲しみはどう考えるのだという水掛け論を呼び込むことになる。こうなると好き嫌いの感情論のレベルになってしまう。
死刑廃止論者が必ずとりあげる論拠として、人間の捌きには誤判がつきもので、冤罪の可能性は避けられないから、とりかえしのつかない刑罰である死刑はやめるべきものだというのがある。 冤罪の可能性をどう避けるかは、法的な手続きの厳正さの問題であって、「死刑廃止」を原理的に主張するための根拠にはなりえない。たとえ実際に冤罪事件があり、再審の結果逆転無罪になるケースがいくつも見られたとしても、そういう弊害を避けるために唯一なすべきなのは、誤りをゼロにするという理念の実現のために、捜査から判決までの全刑事過程を制度的、技術的、現実運用的にいかにきちんと整えてゆくかということであって、死刑を廃止することではない。
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