著者の吉田幾世は教育者
昭和15年から24年までの約10年間、戦前、戦中、戦後の渦の中を 婦人之友の記者として日本中を走り回って取材した探訪記事の中から 自選したものを編集出版したものである。
中には「よき家庭を全満に充たせ」と題して、二ヶ月の連載で発表した満州国の記事は、立派な国策として挙げられていた報道と実際との相違を、拙い婦人記者の目や心に映ったままを率直に書いたもので、満州国の宣伝のために各雑誌社を招待したのに対して、このままでは発禁になるおそれもあると、羽仁吉一社長も心配され、所々消されたりしたという。
外地で役人をしていたり兵隊として行っていた親戚の者からは「今さら思い出すのも嫌だ。現在存在もしていないものを本にするのは止めたほうがよい」と言われたりするが、 一方ではその頃のことを知らない若い人たちからは「大変面白い、これが実際の日本の歴史なのだから書き残して置く意義がある」とも勧められ、迷った末に歴史の資料として発表する気になったらしい。
この本を手にとって読んでみるかという気になったのは 長野県岡谷の製糸工場の探訪記事を目にしたからである。 一週間、女工たちと同じ部屋に泊めてもらい、見よう見真似で彼女たちと一緒に作業をする。そのうちに食堂の手伝い体験もしてみる。 2月27日 昼 塩たらと切こぶの煮つけ 4銭3厘6毛 2月28日 昼 まるいかと葱のぬた 5銭3厘5毛 3月1日 昼 鰯の丸干塩焼き(三尾ずつ) 3銭3厘 2月2日 昼 うどん(豚肉、油揚げ、葱) 6銭4厘4毛 2月3日 昼 ぼた餅(小豆ときな粉) 4銭4厘2毛 2月4日 昼 鯛のかす漬け 5銭3厘4毛
〔北満州開拓団を訪ねて〕 昨日お産をした家に様子を見に行く。お産婆さんや近所の小母さんたちの話をここに少し紹介します。 母か娘が父親に声をかける。「父ちゃん、子供どもさ、豆盛ってやってけらいん」 小母さんたちはうまいうまいと豆をつまみながら、産婆さんも交えて遠慮のないおしゃべりをはじめる。 「満州の方が内地よりよっぽど楽でがす、ただこの寒いことばかり困るども」 「早く春になればいい。なんといっても満州の一番いい時は春先だもの」 「何が不自由だって、海魚食えないことが一番ひどい」 「ほんとに海魚食いたいこと、なめたの大きな奴、ぶつぶつ切って煮て食いたい」 「おら、たごでもいがでもいい」 また、大陸の花嫁たちと語る。 「はじめは、あんまり淋しくて、夕方なぞ、佳木斯の灯を見て泣いていたの」 「おら、まだここさ来てから、一回も活動を見ない。先に満拓から来るって随分楽しみにしていたら、とうとう来なかったもの」 これから来るお嫁さんたちに、皆の経験から推して注意したいようなことはないかと聞く。 「おらの夫たら、満州だば何でもあるから、持たなくてもよいというので本当気して来て、へら、杓子まで高い金出して買って、とっても損した」 「おらもだや、せっかく買って貰った箪笥までおいてきてしまって、行李一つの花嫁さんになって来たの」 「やっこい着物などは本当にいらねえども、普段着だばうんと持ってきた方がよいのね」 「おらボロ布なくてつぎ当てたり、雑巾刺すのに困る。おしめばこの間実家から栗を包んで送ってきたども」
〔学童疎開の子供たちを訪ねて〕 東北の温泉に学童の集団疎開の実情を見学したレポートを読むと 昔も母親教育に手を焼くということを発見しました。 ともすれば個人的に愚痴っぽくなりやすい母の愛を、大きな明るい愛情に育ててゆくためにも、今度のことは実によい奮発の機会だと思います。 ある温泉の疎開学園の先生が「生徒の方は日がたつにつれて団体生活に馴れてきましが、実際のところ私たちは今、母親教育に手を焼いているのです」と悲鳴を上げておられました。 そこの温泉は駅から割合近いところにあるので、一般湯治客に混じって、東京方面から学童の家族や知り合いの人たちがかなり入り込んでいるようでした。 困った例として、父親は出征中、母一人、子一人のお母さんが一ヶ月の大部分を子供の疎開先である温泉へ来て暮らすことにして、子供の世話は焼かない約束で別の旅館へ室をとったそうです。 そのうち我慢しきれなくなって、ただの一晩でよいから子供を貸してくれといって連れ出したところ、子供が帰りたいと一晩中泣き明かし、とうとうこの母子は連れ立って山を降りて行ったということです。 これと似た話を、お風呂の中で、あるお母さんが今日着いたばかりの他のお母さんに自慢げにしゃべっていたのです。 「先生は、親が傍らにいると里心がついていけないというけれど、私は坊やのおできにかこつけて、今までずっといてみて、つくづくいてよかったと思っているのよ。先生は忙しくて手が回らないし、寮母は若くて気が利かないときているでしょう。とても見ていられないもんだから、私が時々寮母を集めて話をきかせてやったんで、この頃はよっぽどよくなってきたんですよ」 わが子の泊まっている宿屋の二階へ陣取って、日に三、四度もお風呂へ入るほかはブラブラと子供の部屋をのぞきに行って、今日のお菜はなんだとか、あの子の布団はどうだとか、仲間のお母さんたちとヒソヒソ話しをして、先生がどんなに迷惑していらっしゃるかということなど一向頓着なしに、その暇があったら早速手伝って貰いたい仕事は目の前にいくらでもあるのです。
〔戦災孤児を浮浪の群れから救うため〕 上野駅を中心に人混みの中に群がる浮浪人の群、殊にこの寒空に半裸体、素足のいたいけな子供たちの姿を見る度に、敗戦ほんの悲しさに胸をしめつけられる思いがする。 浅草の本願寺地下に浮浪人の探訪をしたり、上野から石神井学園へ連れてこられた七人組の少年たちのレポートが続く。 そして 石神井学園の栄養失調で療養を要する低学年の子供たちと一緒にトラックに乗せてもらい 療養地の温泉に向かうが、燃料不足のトラックは途中で止まってしまい、近くの民家の世話になったりして、苦労の末に塩原温泉新湯へ着く。
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