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[No.15195] 蘇我氏四代の冤罪を晴らす 投稿者:男爵  投稿日:2010/05/06(Thu) 17:40
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遠山 美都男: 蘇我氏四代の冤罪を晴らす、学研新書 040

 「日本書紀」には、中大兄皇子と中臣鎌足(藤原鎌足)の二人が中心になり、蘇我氏の野望を阻止したと書かれている。蝦夷や入鹿は大王の地位を窺い、大王家に取って代わろうとしたので滅ぼされたのだ。
 天智天皇の諡号は「天命開別あめみことひらかすわけ」天皇で、「天帝の命令を受けて王朝を開いた高貴な御方」を意味する。天智天皇は蘇我氏から権力を奪還し、王朝を再興した英雄的な天皇とされている。

だが著者は
蘇我稲目、馬子、蝦夷、入鹿の四代は王権簒奪を企て
乙己(いつし)の政変により粛正されたとする日本書紀の記述をめぐって
日本書紀の一部は後に改竄されたのではないかという説を述べている。
 中大兄皇子の台詞「鞍作(入鹿)は、天孫たる大王一族を悉く滅ぼして、大王の位を我が物にしようと企んでおりました。どうして天孫を鞍作に代えることができましょうか」
 A 鞍作尽滅天宗、将傾日位。豈以天孫代鞍作乎。
 B 鞍作将滅天宗、而傾日位。豈以鞍作代天孫乎。
中大兄皇子の台詞を正しく漢文にするとBとなるはずだが、日本書紀にはAのように記載されている。
他の大部分は漢文をよく知った者のてによって書かれているのに、一部だけ文法的に正しくない漢文になっている。これはおそらく後世に漢文力不足の日本人が書き直した箇所であろうと著者は推定する。

つまり、改竄された日本書紀に書かれてあることをそのまま正しいと考えるべきではないということ。蘇我氏が王権簒奪を企てたということは疑問であると著者は述べる。

中国「宋書」倭国伝によると、倭王の珍と済との間に血縁関係を表す言葉は見つけられず、当時の日本では、大王は複数の一族の中から擁立されていたと考えられる。時代の経過とともにしだいに皇位は特定一族のものとなっていった。
これは他の本にも書いてあることで、天皇家の万世一系が具体的に公式記録に残るのは、この乙己の変あたりからであろう。蘇我氏の悲惨な最期を見た藤原氏は、この出来事を一族の繁栄の教訓としたのでないだろうか(主役となるとあぶない、黒子に徹すること)。

蘇我馬子は姪額田部皇女(推古)と助け合って政治を行ってきた。
崇峻天皇は蘇我馬子の推薦で天皇になったが、任那問題ではいわゆる征韓論者だったので、彼らに邪魔にされ殺されてしまった。

舒明天皇が推古天皇の遺言と蘇我蝦夷らの援助で即位。
舒明天皇の皇后がのちに皇極天皇となる。このときまでは蘇我氏の権力は最高であったのだが。

皇極天皇が山背大兄一族の殺害と斑鳩の殲滅を決断した。その特命が入鹿の手に委ねられたのは当然であった(これは著者の説である)。

 645(皇極四)年6月12日、入鹿は飛鳥板蓋宮で行われる「三韓進調」の儀式に参列して暗殺された。「三韓進調」とは、朝鮮三国(高句麗・百済・新羅)がそろって倭国の大王に対して貢ぎ物を献ずる儀式である。この儀式において古人大兄皇子が皇極天皇の傍らに侍したことは、外国使節の前で次期大王として披露する場であった。

 次期大王を決定する権利は大王である皇極が握っていた。
古人大兄の即位を否定し、王都建設に果たす入鹿の主導的な役割も取り消しにするという決定ができるのは、皇極天皇だけだったことになる。
ところが、皇極天皇は、突然の暴力によって古人大兄が王位継承資格を失い、没落していくのを見て見ぬふりをした。
少なくとも皇極は、古人大兄をそのように追い込んだ勢力の罪を積極的に問おうとしなかった。
結果的に見て、皇極天皇が古人大兄と入鹿を裏切ったとしか考えられない。軽皇子(孝徳天皇)が事前に、実の姉である皇極天皇に執拗に働きかけ、翻意をうながしたことを想定しないと、古人大兄と入鹿が一挙に既得権を失うというどんでん返しは到底起こらなかった。
 つまり、皇極天皇・孝徳天皇という姉弟が共謀して、態度が大きくなった入鹿を嫌い、入鹿の息のかかった古人大兄を権力から遠ざけたのであろう(というのが著者の説である)。

はたして
蘇我氏は野望があったのか、なかったのか。
天皇にはならなくても、次期天皇を自分の思うまま選べた存在では
皇族たちに疎まれたかもしれない。

この本も練馬区の図書館で読んだので、一部メモ書きを見ながら整理しました。
少し間違いがあるかもしれない。