> 関川夏央:本よみの虫干し 岩波新書753
もう少し紹介します。
竹山道雄「ビルマの竪琴」 第一次世界大戦中のクリスマス、英独両軍の間で歌の交換があった。この挿話をヒントニ、作者は「ビルマの竪琴」を書こうとした。 作者はドイツ留学後に一高教授をつとめていた。戦争が始まると教え子たちもつぎつぎ出征し、あるものは太平洋で、あるものは沖縄で戦死した。彼は戦死した教え子たちを心から悼んだ。 敗戦後に日本の空気は一変した。 「戦死した人の冥福を祈るような気持ちは、新聞や雑誌にはさっぱり出ませんでした」「それどころか、戦った人はだれもかれも一律に悪人である、といったような調子でした」この思いが作者にこの話を書かせたのであろう。 さて以下は私のコメントです。 この話を映画で見たのが最初である。中学生の時である。はにゅうの宿の歌も 中学校の音楽で習っていたので、音楽の力はこんなにも偉大だと音楽の先生が言う のも実感として納得できた。日本軍の兵士の白骨がこれでもか、これでもかと スクリーンで映し出され、親兄弟や身内の悲しみが子ども心にも理解できた。 そういうわけで中学生には悲しい映画だった。 本を読んだのはそれからずっとずっと後。 敗戦当時の頃、兵隊たちが復員してかえってきたが、みなやせて、元気もなかった。 そんな中に、大変元気よく帰ってきた一隊があったという。 聞いてみると、隊長が音楽大学を出たばかりの音楽家で、兵隊たちに熱心に 合唱を教えていたのだった。この隊は歌のおかげで苦しいときにも元気が出るし、 退屈なときには気がまぎれるし、いつも友達同士の仲もよく、隊としての規律も たもたれていた。この隊の一人の兵士がこの話をしてくれた、というはじまりになっている。 竪琴のうまい水島上等兵は風貌もビルマ人に似ている。 そういう書き出しで、のちに主人公の水島上等兵がビルマ僧となって、竪琴を 弾きながら、死んだ兵士の遺骨を弔う仕事をする伏線を書いているのはさすがだ。 村人の歓迎を受けて、合唱を繰り返すうちにいつしか村人がいなくなり、 敵に取り囲まれたことを知ったこの隊は、隊長の判断で合唱を続けながら 戦いの準備をする。武器の用意もできたとき一瞬静まり返った。 あわや戦闘開始かと思われたとき、取り囲んでいるイギリス兵の中から 英語の歌がまきおこり、いつしか敵味方一緒に大合唱になっていったところで 第一話が終わる。 あとがきで作者は書いている。 この読物を書くのに、日本兵が合唱をしていると、とり囲んでいる敵兵もそれに つられて合唱をはじめ、ついに戦いはなくてすんだ、というような筋を考えた。 しかし、日本人と中国人が歌う共通の歌はない。それで、われわれが子どもの頃から 歌っている「はにゅうの宿」を一緒に歌える相手は、イギリス兵でなくてはならない と考えるにいたった。 こういう事情から、舞台はビルマになってしまったという。 作者はビルマに行ったことはなかった。だが、台湾に行ったことがあり、現地の部落 を訪れたこともあり、台湾の風土を思い出しながら、この話を書いたという。 終戦後すぐのころなので、進駐軍の検閲があった。(映画も芝居もみんな検閲された) 第1話を書いてそれを検閲に提出した。 検閲の結果、戦争をあつかっているからと不許可になった。出版社の方で何度か当局と 交渉してやっと、書いてから半年後に掲載されることになった。 そして、その続きは、この話が終わりまで完成した後に、全部を調べて大丈夫だと 判断されたら、許可されることになったという。そのため、全部を書くのに時間的な 余裕ができて色々調べることができたそうだ。 ビルマ全国に日本兵の白骨がたくさん野ざらしになっていること、日本兵が敗戦後に 脱走してビルマ僧になっている者がある等の話を聞いて、作者は話の筋立て構成を 決めた、とあとがきに書いてある。 しかし、現地の体験がないため、細かいところでは数多くの間違いがあったようである。 たとえば、僧がはだしで歩いているように書いたが、僧にかぎって「ポンジー草履」 と呼ぶものをはいているそうだ。 子ども向きに書いたせいもあって、非常に筋の展開がなめらかだ。 説明が飛躍するところがない。だから、読者は素直に話についていける。 教室で講義をするときも、あるいは教科書の説明文を書くときも 一連の経過を少しでも省略することなく説明するべきだと思った。 この作家のていねいな書き方を知って、初心者の学生に説明するべき方法を 反省した。 作者はドイツ文学者で、子ども向きの話はこれ以外には書かなかった。 この話が反戦的だともてはやされてから、のちに保守的な発言をするようになった作者 は転向したのではないかと一部には誤解されていたようであった。 本人が語るように、本人の思想はやはり一貫していたのであろうか。 今日の日本の発展を考えるとき、この戦争でたくさん死んでいった無名兵士の ことを忘れるわけにはいかない。私と同世代にも、戦死した父をもつ友人が 多い。もし、両親がそろっていたら、彼らはそんなにも人生の苦労をしなかったろう。
太宰治「走れメロス」 昭和15年に太宰はこの作品を書いた。満三十歳だった。 それより二十年前の大正九年、三十八歳の鈴木三重吉が同じ素材で「デイモンとピシアス」を書き「赤い鳥」に発表している。ピシアスがメロスで、デイモンは人質となった友セリヌンティウスである。 三重吉バージョンでは、ふたりはピタゴラス派の知識人である。三日の制限は切られず、太宰がメロスに抱かせた束の間の迷いとあきらめの劇がない。ゆえに、「私を殴れ」「私は、途中で一度、悪い夢を見た」というメロス、「同じくらい音高く私の頬を殴れ。私はこの三日の間、たった一度だけ、ちらと君を疑った」という友、そのクライマックスがない。 そして太宰作品を特徴づけるのは、三重吉には欠けていた単純の美への強い憧れと、夏の日ざかりに似た明度高いユーモアの気配である。 さて、この名作はしかし、彼の失敗体験がもとになっているのではないかという説を以前に紹介しましたね。 [No.14746] トンデモ偉人伝 作家編 山口智司著 彩図社 ○太宰治 薬物中毒で破産 急逝盲腸炎で入院した太宰は、入院中に鎮痛剤としてバナビ-ルを使用したことがきっかでバナビ-ル中毒者になってしまった。 薬を買うため、小説仲間はもちろん高校時代の友だちまで声をかけ、さらに編集者にまで泣いて借金を頼んだ。バナビ-ルがなくなると、太宰は薬屋の主人に泣きながら土下座までして頼み、それでも断られると薬屋をひどく罵った。 友人を置き去りにした走らないメロス バナビ-ル中毒で精神病院に入院して、その病院から退院して執筆活動を始めた太宰のところに、太宰の妻初代の頼みでお金を渡しにきたのは檀一雄。お金を受け取った太宰は、そのお礼にと檀を小料理屋に連れて行き大酒を飲み、それから女郎屋に行き女を買い、そしてさらに...としているうちにお金をすっかり使い果たしてしまった。 ひとまず檀に支払いのある宿に残ってもらい太宰が東京に帰って金をとってくることになった。だが、待っても太宰は帰って来ないから檀が井伏鱒二の家に行くと、なんと太宰はそこでのんびりと将棋を指していたという。 これが有名な熱海事件で、後に「走れメロス」を書くきっかけになったという。 また以前に、サトウハチローのところで紹介したように、作者の人生における行動とその作品は同じものではありません。 作品は、その作者やモデルとの真実の関係を保障するものではないのですね。 作者やモデルは、その作品の通りどころか、全く違うことがよくあるのは 川端康成や太宰治の作品でも、ここで紹介した通りです。 子供時代のハチロ-は、母親思いだったかどうか、本人以外誰にもわからないということです。
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