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[No.15275] 本よみの虫干し 投稿者:男爵  投稿日:2010/05/28(Fri) 07:54
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関川夏央:本よみの虫干し  岩波新書753


松本清張「点と線」
 九州博多近郊で心中死体として発見される二人は、その一週間ほど前に東京駅で博多行特急「あさかぜ」に同乗するところ見られていた。
それは列車の出入りの激しい東京駅の17:57から18:01までの4分間だけが、隣のフォームに列車が入線していなくて、その先の「あさかぜ」とそれに沿って歩く男女の姿が見えたのであるが、偶然にしてはできすぎていたと刑事には思われた。(刑事は心中事件はしくまれたものではないかと考える)
「あさかぜ」は18:35発なのに、彼らは発車30分前に全車指定の列車に乗り込んでくるのは不自然ではないかと指摘するのはこの本の著者である。
 「点と線」は1958年ころに書かれた推理小説で、旅とアリバイをとりあげた本格的な社会派の推理小説といわれる。それまでの探偵小説は、犯人のトリックがまずあって、その構成に登場人物をあてはめていくものが多かったから、人物の描写は不自然さが目立った。松本清張はそういう推理小説の世界に、人間の心理を描いた作家として評価された。したがって、トリックが選考する清張以前の推理小説と清張の推理小説は明らかに区別されるべきであるが、批評家の目からすれば、清張の小説もトリックゆえに小説の中の人物の行動や描写に無理があるということになる。それなら、あなたも書いてみなさい、批評ばかりしていないで、とは作家が怒ってよくいうところである。批評家は作家になれない者がやむをえず選んだ職業みたいなところがあるが、批評家によって作家も世に認められることにもなるので、お互いによい関係をもつべきなのであろうが。

啄木「ローマ字日記」
 なぜ啄木はローマ字日記を書いたか。妻に読まれたくなかったからという説もあるが、妻節子は女学校を卒業しているので当然ローマ字は読めたであろう。漢字やかなを使っての漢語や雅語にたよる(樋口一葉などのような)文体ではなく、ローマ字による新しい文体に挑戦したのではないかと推理するのが妥当な推理と思われる。啄木は節倹するかわりに、活動写真と女に逃避した。前借りした月給が手元にあると落ち着かない気分になり、浅草へ行って洋食を食べ、安価な娼婦を買った。「ローマ字日記」にある明治四十二年四月から六月まで、寸借と入質を含めた啄木の総収入は98円25銭だった。たまった下宿代を37円入れ、必要経費は26円ほどだった。残る35円は娼婦、酒など不要不急の出費、つまり無駄遣いであった。勤務ぶりもいい加減であった。三月はまじめに出社したが、四月は十八日、五月は二日しかでなかった。家族が上京した六月も仮病をつかってほとんど休み、そのくせ月はじめには人をやって給料を前借りした。部屋にこもって小説に専念するつもりだったが、どれも完成せず、月の下旬、下宿代の催促の時期になると歌ばかりが自然に口をついた。それは一種の精神の補償作用だった。啄木の貧乏はおもに啄木自身の責任である。結局彼は望み通りに病気になり、多額の借金債務を残し明治四十五年四月、二十六歳で死んだ。啄木は小説家としてではなく、その歌い捨てたような短歌によって記憶されることになったが、希望は往々にして、本人にとって意外、または心外なかたちでかなえられる。と啄木に対する辛口の文章が続いたのですが、この著者の主張を私は否定しません。まったくそのとおり。
 借金を続けて、妻子の世話もせず、友人や周りの人々に迷惑をかけつづけた啄木、死んでみんなホッとしたことだろう。

林芙美子「放浪記」
 林芙美子は、その母親譲りの血ゆえに「宿命的に」共同体に帰属意識を持たなかった。守るべき規範すなわち「古里」から自由だった。二十歳代前半に三度正式ではない結婚をし、その間の日記にもとづいた手記が「放浪記」となった。流行作家となったのちは昔の友人とのつきあいを断ち、「放浪記」に実名で虚構を書かれた女性が抗議すると「私はあんなことでも書かなければ食べていくことができないのです」と言った。殴られながら男の機嫌をとり、金をみついでいた彼女だが、精神的には「他人に侵される隙がないどころか、どしどし侵す勇者だった(平林たい子)」のである。
放浪記が世に出たのは昭和五年、それから彼女は流行作家となり文壇で有名となり金にも困らなくなったらしい。昭和十四年、決定版「放浪記」を出すとき、彼女は大幅な改稿を試みた。たとえば「ヘェ! 街はクリスマスでござんすとよ」を「ヘゥ、街はクリスマスでございますか」と直し、「ハイハイ私は、お芙美さんは、ルンペンプロレタリアで御座候だ。何もない」のくだりは削除した。そうして、原本の若々しい戦闘性は消え、やや感傷的なトーンを帯びた現在の「放浪記」となった。戦後、異常なまでに働いたのは、他の女性作家に書かせたくなかったからだ、という観測には真実味があった。昭和二十六年、四十八歳で突然死をとげた。過労死と思われる。不思議なほど悼む空気の希薄な葬儀をひきしめたのは、川端康成の弔辞だった。「故人は自分の文学生命を保つため、他に対して、時にはひどいこともしたのでありますが」「死は一切の罪悪を消滅させますから、どうか故人を許してもらいたいと思います」式が終わりかけたとき、少額の香典を手に近所のおかみさん連が退去して焼香に訪れ、会葬者をおどろかせた。林芙美子は、捨て身の明るさと強烈な上昇志向、意地の悪さと虚栄心、すべてをかねそなえたもいわば生まれながらの庶民であった。
 放浪記を読むと精神的にどん底を迎えた彼女が死に場所を求めたのは日本海の海辺の町であった。その町を歩いていると庶民がかっこうをつけないでひたむきに生きている姿に反省させられ、駅ちかくの団子屋で買い求めた団子の甘さが彼女に生きる勇気を与えてくれた。そこから彼女のツキが変わったのである。


[No.15288] Re: 本よみの虫干し 投稿者:男爵  投稿日:2010/05/31(Mon) 09:59
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> 関川夏央:本よみの虫干し  岩波新書753

もう少し紹介します。

竹山道雄「ビルマの竪琴」
 第一次世界大戦中のクリスマス、英独両軍の間で歌の交換があった。この挿話をヒントニ、作者は「ビルマの竪琴」を書こうとした。
作者はドイツ留学後に一高教授をつとめていた。戦争が始まると教え子たちもつぎつぎ出征し、あるものは太平洋で、あるものは沖縄で戦死した。彼は戦死した教え子たちを心から悼んだ。
敗戦後に日本の空気は一変した。
「戦死した人の冥福を祈るような気持ちは、新聞や雑誌にはさっぱり出ませんでした」「それどころか、戦った人はだれもかれも一律に悪人である、といったような調子でした」この思いが作者にこの話を書かせたのであろう。
 さて以下は私のコメントです。 
この話を映画で見たのが最初である。中学生の時である。はにゅうの宿の歌も
中学校の音楽で習っていたので、音楽の力はこんなにも偉大だと音楽の先生が言う
のも実感として納得できた。日本軍の兵士の白骨がこれでもか、これでもかと
スクリーンで映し出され、親兄弟や身内の悲しみが子ども心にも理解できた。
そういうわけで中学生には悲しい映画だった。
 本を読んだのはそれからずっとずっと後。
敗戦当時の頃、兵隊たちが復員してかえってきたが、みなやせて、元気もなかった。
そんな中に、大変元気よく帰ってきた一隊があったという。
聞いてみると、隊長が音楽大学を出たばかりの音楽家で、兵隊たちに熱心に
合唱を教えていたのだった。この隊は歌のおかげで苦しいときにも元気が出るし、
退屈なときには気がまぎれるし、いつも友達同士の仲もよく、隊としての規律も
たもたれていた。この隊の一人の兵士がこの話をしてくれた、というはじまりになっている。
竪琴のうまい水島上等兵は風貌もビルマ人に似ている。
そういう書き出しで、のちに主人公の水島上等兵がビルマ僧となって、竪琴を
弾きながら、死んだ兵士の遺骨を弔う仕事をする伏線を書いているのはさすがだ。
村人の歓迎を受けて、合唱を繰り返すうちにいつしか村人がいなくなり、
敵に取り囲まれたことを知ったこの隊は、隊長の判断で合唱を続けながら
戦いの準備をする。武器の用意もできたとき一瞬静まり返った。
あわや戦闘開始かと思われたとき、取り囲んでいるイギリス兵の中から
英語の歌がまきおこり、いつしか敵味方一緒に大合唱になっていったところで
第一話が終わる。
 あとがきで作者は書いている。
この読物を書くのに、日本兵が合唱をしていると、とり囲んでいる敵兵もそれに
つられて合唱をはじめ、ついに戦いはなくてすんだ、というような筋を考えた。
しかし、日本人と中国人が歌う共通の歌はない。それで、われわれが子どもの頃から
歌っている「はにゅうの宿」を一緒に歌える相手は、イギリス兵でなくてはならない
と考えるにいたった。
こういう事情から、舞台はビルマになってしまったという。
 作者はビルマに行ったことはなかった。だが、台湾に行ったことがあり、現地の部落
を訪れたこともあり、台湾の風土を思い出しながら、この話を書いたという。
終戦後すぐのころなので、進駐軍の検閲があった。(映画も芝居もみんな検閲された)
第1話を書いてそれを検閲に提出した。
 検閲の結果、戦争をあつかっているからと不許可になった。出版社の方で何度か当局と
交渉してやっと、書いてから半年後に掲載されることになった。
そして、その続きは、この話が終わりまで完成した後に、全部を調べて大丈夫だと
判断されたら、許可されることになったという。そのため、全部を書くのに時間的な
余裕ができて色々調べることができたそうだ。
 ビルマ全国に日本兵の白骨がたくさん野ざらしになっていること、日本兵が敗戦後に
脱走してビルマ僧になっている者がある等の話を聞いて、作者は話の筋立て構成を
決めた、とあとがきに書いてある。
 しかし、現地の体験がないため、細かいところでは数多くの間違いがあったようである。
たとえば、僧がはだしで歩いているように書いたが、僧にかぎって「ポンジー草履」
と呼ぶものをはいているそうだ。
 子ども向きに書いたせいもあって、非常に筋の展開がなめらかだ。
説明が飛躍するところがない。だから、読者は素直に話についていける。
教室で講義をするときも、あるいは教科書の説明文を書くときも
一連の経過を少しでも省略することなく説明するべきだと思った。
この作家のていねいな書き方を知って、初心者の学生に説明するべき方法を
反省した。
 作者はドイツ文学者で、子ども向きの話はこれ以外には書かなかった。
この話が反戦的だともてはやされてから、のちに保守的な発言をするようになった作者
は転向したのではないかと一部には誤解されていたようであった。
本人が語るように、本人の思想はやはり一貫していたのであろうか。
 今日の日本の発展を考えるとき、この戦争でたくさん死んでいった無名兵士の
ことを忘れるわけにはいかない。私と同世代にも、戦死した父をもつ友人が
多い。もし、両親がそろっていたら、彼らはそんなにも人生の苦労をしなかったろう。

太宰治「走れメロス」
 昭和15年に太宰はこの作品を書いた。満三十歳だった。
それより二十年前の大正九年、三十八歳の鈴木三重吉が同じ素材で「デイモンとピシアス」を書き「赤い鳥」に発表している。ピシアスがメロスで、デイモンは人質となった友セリヌンティウスである。
三重吉バージョンでは、ふたりはピタゴラス派の知識人である。三日の制限は切られず、太宰がメロスに抱かせた束の間の迷いとあきらめの劇がない。ゆえに、「私を殴れ」「私は、途中で一度、悪い夢を見た」というメロス、「同じくらい音高く私の頬を殴れ。私はこの三日の間、たった一度だけ、ちらと君を疑った」という友、そのクライマックスがない。
そして太宰作品を特徴づけるのは、三重吉には欠けていた単純の美への強い憧れと、夏の日ざかりに似た明度高いユーモアの気配である。
 さて、この名作はしかし、彼の失敗体験がもとになっているのではないかという説を以前に紹介しましたね。
[No.14746] トンデモ偉人伝 作家編
 山口智司著 彩図社
○太宰治
薬物中毒で破産
急逝盲腸炎で入院した太宰は、入院中に鎮痛剤としてバナビ-ルを使用したことがきっかでバナビ-ル中毒者になってしまった。
薬を買うため、小説仲間はもちろん高校時代の友だちまで声をかけ、さらに編集者にまで泣いて借金を頼んだ。バナビ-ルがなくなると、太宰は薬屋の主人に泣きながら土下座までして頼み、それでも断られると薬屋をひどく罵った。
友人を置き去りにした走らないメロス
バナビ-ル中毒で精神病院に入院して、その病院から退院して執筆活動を始めた太宰のところに、太宰の妻初代の頼みでお金を渡しにきたのは檀一雄。お金を受け取った太宰は、そのお礼にと檀を小料理屋に連れて行き大酒を飲み、それから女郎屋に行き女を買い、そしてさらに...としているうちにお金をすっかり使い果たしてしまった。
ひとまず檀に支払いのある宿に残ってもらい太宰が東京に帰って金をとってくることになった。だが、待っても太宰は帰って来ないから檀が井伏鱒二の家に行くと、なんと太宰はそこでのんびりと将棋を指していたという。
これが有名な熱海事件で、後に「走れメロス」を書くきっかけになったという。
 また以前に、サトウハチローのところで紹介したように、作者の人生における行動とその作品は同じものではありません。
作品は、その作者やモデルとの真実の関係を保障するものではないのですね。
作者やモデルは、その作品の通りどころか、全く違うことがよくあるのは
川端康成や太宰治の作品でも、ここで紹介した通りです。
子供時代のハチロ-は、母親思いだったかどうか、本人以外誰にもわからないということです。