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[No.15421] 山本淳子:源氏物語の時代 投稿者:男爵  投稿日:2010/06/28(Mon) 06:50
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副題は 一条天皇と后たちのものがたり
2007年、サントリー学芸賞「芸術・文学部門」を受賞した。

藤原兼家には道隆、道兼、道長の息子がいた。
その他に道綱もいた。つまり、あの蜻蛉日記の作者が、この道綱の母である。

一条天皇の中宮定子は藤原道隆の娘であった。
一条天皇は中宮定子と義兄伊周(これちか)の前で居眠りをする。
気を許した間だから。団らんがあったから。
一条天皇は伊周から漢文を教わっていた。夜遅くまで勉強を続けていた。
彼らの楽しいひとときを、深夜まで仕えていた清少納言は、枕草子に書く。

道隆は糖尿病で死ぬ。道隆の長男伊周が関白になれるかとおもいきや
天皇は関白に道兼を指名した。道兼はしかし一週間の関白をつとめ疫病で瀬亡くなってしまう。
こうして、道長は関白になることができた(道長がなったのは内覧であったが、実質的には関白であった)。

この背景には、一条天皇の母詮子の意向があったのではないかと著者は推定する。
すなわち、枕草子にあるように、一条天皇と中宮定子とその兄伊周との間の親密な団らんの噂は、息子とその嫁の仲むつまじい家庭から自分だけが疎外されていると感じたのであろう(とは、この本の作者の推理)、
また道長は、詮子が父の実家で、子供時代の一条天皇たちと一緒に暮らした気のおけない弟だったから、道長が権力の座につけば詮子も安泰なのであった(嫁とその兄を嫌って、自分の弟のほうに権力を与えた)。

恋のため花山法皇を襲ったこと、詮子への呪詛等の罪で、伊周は太宰府に、隆家は出雲に配流された。絶望した定子は出家した。

道長は嫁を高貴から選ぶ。彼が選んだ妻倫子の父は源雅信で、宇多天皇の孫にあたるが臣下に下り源氏を名乗る。
源雅信は娘の結婚相手として不満であったが、源雅信の妻は二十四になった娘としては良縁だと判断して、この結婚を勧めた。
倫子と道長の夫婦は、彼らの娘を皇后にするべく共同経営者だった。
道長の野心を助けた倫子。

貴族たちからひんしゅくをかうが、出家した定子に一条天皇は通い続ける。
そのうち、道長の娘彰子が入内し、ほとんど同時に、定子は男子を出産した。
定子は出家者のため、道長が彰子を中宮に上げる提案をしても誰も反対しない。かくして彰子は、十四歳で中宮となった定子の記録をぬいて、十三歳で中宮となる。

紫式部ははじめ先輩女房たちにいじめられたが下手に出てから仲間に入れてもらったとその日記に書いてある。
結婚九年目にして、彰子は男子を出産する。父道長の喜びようはひととおりではなかった。

道長は、彰子の手元にある源氏物語が一条天皇を喜ばせると知って、本にまとめることに協力した。
この本の作者は断定する。
一条天皇が愛したのは定子ひとりだったと。

  ーーーーーー

道隆は糖尿病で死ぬ。道隆の長男伊周が権力者(関白)になれるかとおもいきや
天皇は関白に道兼を指名した。道兼は短命で、その結果道長が関白になることがてきた。
それは偶然ではなく、一条天皇の母親の意向があったからと作者は推理するのだが
この説は新たな資料が見つかれば訂正されるのだろうか。
若い伊周は焦らなくてもよかったのだろうが、少し動きすぎた。
父道隆は死に、兄伊周は左遷され、定子は悲しみ出家する。しかし、天皇は彼女のもとに通い続ける。
だから、一条天皇は定子のみ愛したと作者は断定するが、次の中宮彰子が皇子を産んでも愛さなかったといえるのだろうか。
彰子は定子の遺子敦康親王を手元に引き取って養育した。

これらの出来事は人間の心の動きとして、源氏物語に反映されていると思われる。
定子の元気なこと、清少納言をはじめとする定子の女房集団は漢文などの知識が優れていて
それに対抗すべく彰子の女房集団にスカウトされたのが紫式部であった。
紫式部の登場でやっと彰子の女房集団の知的レベルが向上し、定子グループに対抗できるようになった。
したがって紫式部の清少納言に対するライバル意識は強いものであった。だから、紫式部が清少納言に厳しい批評をしたのだと、著者は紫式部を解説する。