新・外国人留学生のための面接合格するための本かつては日本語学校を終えた外国人留学生の入学試験の面接をしたことがあります。これはそういうわけで一般に日本の大学の入学試験を受ける外国人留学生の面接対策の本です。必ずされる質問・日本を留学先に選んだ理由・学部や学科の志望理由・卒業後の希望や予定・この大学を選んだ理由・大学で一番学びたいこと・どんな大学生活を送りたいか?・合格したら入学するか? 併願校はあるか?・入学金や学費などの支払い方法は(経済基盤は)?どう答えたらいいか、この本の著者はちゃんと教えている。聞かれたことだけ答えればよい、話しすぎはマイナスになる。「です・ます」調がよい。「〜だよ・〜ね」などは不可。知らないこと、わからないことは「そのことについては、よくわかりません」と正直に話したほうがいい。茶髪はいけない。イヤリングやピアスはだめ。爪にマニキャアはいけはいけない。これらは、日本人学生が就職試験の面接を受ける時も通じるアドバイス。具体的な質問、それに対する回答、そして追加質問の対応など具体的なノウハウや例が説明されていて興味深い。この本の出版社の凡人社は留学生関係の本をたくさん出版している。
> 現在は奈良教育大学教授安田寛先生の「唱歌と十字架」「唱歌と十字架」の後半に載っていた衝撃的な事実 岡野家応接間に飾られた古い写真があった。 そこには着物を着た東京音楽学校の学生が三人並んでいた。 永井幸次、滝廉太郎、岡野貞一 彼らはクリスチャンだった。さて今度は言文一致唱歌の創始者田村虎蔵の話です。田村虎蔵が鳥取県の師範学校を卒業して因幡高等小学校の先生になった頃東京音楽学校では生徒を募集するというニュースを知った。そしてその東京音楽学校の第二代校長で鳥取県出身の村岡範為馳(むらおか はんいち)理学博士の講演会が8月に鳥取市で行われるというのであった。さっそく田村はその講演を聞きに行って感激した。 東京音楽学校の初代校長は井沢修二だった。 村岡範為馳はドイツのシュトラスブルクで博士の学位を得た物理学者であったが 専門が音響物理学だったので音楽に造詣が深いとみなされたらしい。 村岡校長の時は、東京音楽学校の存続が話題になったようで、村岡らの努力で 募集人員が増加したのであった。 村岡は、田村たちが入学した翌明治26(1893)年に京都大学の教養部に相当するところに教授として移っていった。鳥取県からは田村虎蔵、林甚蔵(重浩)、そして永井幸次が受けた。入学新科目は、高等小学校卒業以上の学力唱歌(唱歌集初編以上)、そして英語であった。ところが 永井幸次の場合入試で歌わされる「小学唱歌集初編」をすでに持っていた。これは県庁学務課に勤めていた叔父が捨てようとしたものをもらったのであった。田村虎蔵の主な作品 大こくさま きんたろう はなさかじじい うらしまたろう 大江山 したきりすずめ 大寒小寒 うさぎ 一寸法師 青葉の笛
みなさん、今日は今日は何の日、6月27日奇跡の人の日アメリカの社会福祉事業家、ヘレン・ケラーの1880年の誕生日。生後19箇月で猩紅熱の為に目・耳・口が不自由になったが、家庭教師アン・サリバンの厳格かつ献身的な教育によって読み書きを覚えて大学を卒業し、「奇跡の人」と呼ばれた。以後、世界各地で講演して盲唖者・身体障害者を励ます福祉活動に献身した。日照権の日1972(昭和47)年、違法建築の隣家によって日照を奪われた問題で、最高裁が「日照権と通風権が法的に保護するのに値する」という初めての判決をし、日照権・通風権が確立した。演説の日1874(明治7)年、慶応義塾の三田演説館で日本初の演説会が行われた。「演説」という言葉は慶応義塾を創設した福澤諭吉が仏教語をもとに作ったもので、この日の演説で福澤は「日本が欧米と対等の立場に立つ為には演説の力を附けることが必要」と説いた。1949(昭和24)年 杜絶えていたシベリアからの引揚が再開され、1980人を乗せた第一船・高砂丸が舞鶴港に入港 1953(昭和28)年 フィリピン政府が日本人戦犯全員の特赦を発表 これは、「モンテンルパの夜」が貢献した。作詞:代田銀太郎、作曲:伊東正康、歌唱:渡辺はま子、宇都美清太平洋戦争中の戦争犯罪をおこなったとされ、フィリピンのマニラ郊外のモンテンルパの丘にあった刑務所に服役していた戦犯たちが、故郷をしのんで作った歌だった。この歌のヒットや渡辺はま子をはじめ関係者の努力が、当時のフィリピン当局を動かし、1953年(昭和28年)特赦によって戦犯の帰国がはかられた。1954(昭和29)年 ローマの世界体操選手権に日本が初参加。個人2種目で優勝、男子団体でも2位。体操日本のスタート1967(昭和42)年 「国民生活白書」発表。過半数が自らが中流階級であると意識 1994(平成6)年 松本サリン事件。松本市の住宅街で有毒ガスのサリンがまかれ住民7人が死亡。当初第一発見者の会社員が犯行を疑われるが後にオウム真理教の犯行と判明し、警察・マスコミが報道の行きすぎを謝罪 今日の誕生日の花:ホタルブクロ花言葉:正義今日の一句:逢ひたくて蛍袋に灯をともす 岩淵喜代子 出典は今日は何の日、毎日が記念日http://nnh.to/及びNHKラジオ深夜便から引用しています。
みなさん、今日は今日は何の日、6月26日国連憲章調印記念日日本国際連合協会が制定。1945(昭和20)年、「国連憲章」に50か国以上が調印し、国際連合の設立が決定した。国連憲章が発効し国連が発足したのはその年の10月24日で、この日は「国連の日」となっている。日本の国連加盟が認められたのは1956(昭和31)年12月18日だった。国際麻薬乱用・不正取引防止デー(International Day against Drug Abuse and Illicit Trafficking)1987(昭和62)年の国連総会で制定。国際デーの一つ。1987(昭和62)年、薬物乱用・不正取引防止に関する国際会議で「薬物乱用統制における将来の活動の包括的多面的概要」が採択された。拷問の犠牲者を支援する国際デー(International Day in Support of Victims of Torture)1997(平成9)年12月12日の国連総会で制定。国際デーの一つ。1984(昭和59)年、「拷問、その他の残酷、非人道的もしくは屈辱的処遇および処罰を禁止する条約」が発効した。露天風呂の日岡山県湯原町うるおいあるまちづくり委員会が1987(昭和62)年に制定。「ろ(6)てんぶ(2)ろ(6)」の語呂合せ。国土庁創設記念日1974(昭和49)年、総理府(現在の内閣府)の外局として国土庁が創設された。2001(平成13)年に、建設省等と合併し国土交通省となった。国土の適切な利用を図ることを目的とし、地価対策、首都圏整備計画、各地方開発促進計画等を実施していた。雷記念日930(延長8)年、平安京の清涼殿に落雷があり、大納言の藤原清貴が亡くなった。この落雷は政治的な策略によって太宰府に左遷されそこで亡くなった菅原道真のたたりであると信じられ、道真公は名誉を回復した。またこれにより、菅原道真は雷の神「天神」と同一視されるようになった。オリエンテーリングの日1966(昭和41)年、東京・高尾山で日本初のオリエンテーリングが行われた。オリエンテーリングとは、地図とコンパスをたよりにチェックポイントを順番にたどってゴールするまでの時間を競うスポーツである。1960(昭和35)年 マダガスカルがフランスから独立 1965(昭和40)年 川崎市で新興住宅地の裏の谷に捨てられた石灰石の山が豪雨で崩潰。60人が生き埋めになり24人死亡 1968(昭和43)年 小笠原諸島が23年ぶりに日本に復帰 1983(昭和58)年 第13回参議院選挙。全国区で初めて比例代表制を導入しミニ政党が善戦 今日の誕生日の花:ザクロ花言葉:円熟した優美今日の一句:あかあかと一と夜の旅の花石榴 石塚友二 出典は今日は何の日、毎日が記念日http://nnh.to/及びNHKラジオ深夜便から引用しています。
副題が 漱石・旨味・ドイツ となっていてドイツ留学した化学者池田菊苗の業績だけでなく夏目漱石との交流についてもふれている。すなわち漱石のロンドン時代に池田は恩師桜井錠二の勧めでドイツからの帰りにロンドンで桜井と会いロンドンの化学者たちと交流したとき漱石の下宿で、しばしば池田は漱石と話し合い漱石もよい刺激を受けたのである。この著者によると池田との会話から、漱石はインスピレーションを得て池田は「文学論」執筆の際の指針を漱石に与えたことになっている。確かに漱石は池田と会って、ロンドンでの留学の反省をしそれからの大きな方向転換をしたのであるが。さて著者は同じ東大卒とはいえ、池田は漱石の4年先輩で二人の間に面識はなかったから誰が二人を結び付けたを推定する。漱石と親しかった大幸(おおさか)勇吉は、池田と大学も下宿も同じだったから親しかった。大幸は池田から頼まれて、ロンドンの漱石を紹介したらしい。かくして漱石の下宿に決まったので池田はほかにもロンドンでの住まいを依頼していた藤井宣正に断りの手紙を書いている。この本で著者は藤井宣正を「破戒」のモデルだと書いている。これはいただけない。彼は東大卒業と同時に西本願寺文学寮教授に就任。それから、飯山の井上寂英の長女瑞枝と結婚。瑞枝は日本英学校を首席で卒業「心の露」を出版した才媛であり、実家は島崎藤村「破戒」の中で蓮華寺のモデルとなった。本願寺よりヨーロッパにおける政教調査のためロンドン派遣の命を受け、大英博物館やヴィクトリア&アルバート美術館にて仏教美術研究の最新動向に触れた。浄土真宗本願寺派の大谷光瑞が組織した学術調査隊・大谷探検隊では実質的リーダーを努め、シルクロード研究に関する調査成果を残し、貴重な遺物・古文書を日本に持ち帰った。つまり妻の実家が「破戒」のモデルとなった寺である。
この本を書いた当時は弘前大学助教授で現在は奈良教育大学教授安田寛先生の「唱歌と十字架」要するに明治の小学唱歌をつくったのは日本の音楽教育のため招聘されたアメリカ人メーソンでメーソンは若い時に宣教師願望があったくらいだから彼は宣教師カーチスたちと連絡をとりあって賛美歌の曲をもとに小学唱歌をつくった。明治天皇を神格化したい明治政府にとってキリスト教は危険思想であったので明治政府は徹底的に唱歌の歌詞に干渉した。メーソンを日本に招へいした田中不二麿は職を移転させられ、メーソンは孤立してしまった。(メーソンを招聘したグループは解散させられ、保守的なメンバーがメーソンの活動に圧力をかけたらしい)そういうわけでメーソンの数少ない支持者は苦労したらしい。1882(明治15)1月 神田昌平館での音楽会蛍の光 曲は讃美歌 歌詞は儒教からのもの。讃美歌はちまたで歌われた民謡から讃美歌になったものも少なくない。元歌が讃美歌である事をたくみに隠して解説した井沢修二。スコットランドやアイルランドの民謡が唱歌に多くみられるのは五音階に基礎づけられた日本人には、この地方の民謡が理解しやすいと考えられたから。こうして小学唱歌集にたくみに賛美歌の曲が取り入れられた。 (以下は別の本の知識ですが) ヘボンたち宣教師は日本人に讃美歌を指導して苦労した。 日本人は歌うことが下手だとあきらめかけた。 宣教師の妻たちはしんぼう強く指導しているうちに 日本人はファとシの音がない歌なら上手に歌えることに気がついた。 いわゆるヨナぬきである。 こうしたふだんのデータもあって 五音階に基礎づけられた日本人には アイルランドやスコットランド地方の民謡が理解しやすいと考えられた。著者は大学の先生なのでいちいち資料を確認してから議論をすすめています。そのときフェリス女学院大学音楽図書館室室長の手代木俊一氏の協力があったようです。著者の執念は、非協力的だった神戸女学院も貴重な資料を見せてくれるようになる。神戸女学院を創立し初代校長となったタルカット女史は、ボストンの海外電動本部に宛てて、「私たちはカーチスたちと日本国内旅行をして、日光ではメーソンたちと会った」と報告している。神戸女学院資料室の若山晴子とも親しくなった著者。わざとミステリー風に書いた本研究にはきちんとした証拠資料が必要なので、それを調査して書いた本。苦労して手探りで調査を進めたことを前面に押し出しての文章である。結論だけ整理して書けば、この1/3くらいの本に圧縮できたろう
みなさん、今日は今日は何の日、6月25日住宅デー全国建設労働組合総連合が1978(昭和53)年に制定。スペインの建築家、アントニオ・ガウディの1926年の誕生日。制定当時は高度成長による住宅建設ブームで、量産の中で職人さんをめぐるトラブルもたくさんあった。このため町の大工さんや左官屋さん等職人の腕と信用をPRする為に制定された。住宅相談会や木工教室等開かれる。天覧試合の日1959(昭和34)年、昭和天皇皇后両陛下が後楽園球場で巨人対阪神戦を観戦した。プロ野球の天覧試合はこれが初めてだった。4対4の同点で迎えた9回裏、巨人の長嶋茂雄が阪神の村山実からホームランを打ってサヨナラ勝ちをした。救癩の日1931(昭和6)年〜1963(昭和38)年。らい病(ハンセン病)の予防と患者の救済に深い関心をよせていた大正天皇の后・貞明皇后の誕生日。1964(昭和39)年から「ハンセン病を正しく理解する週間」となった。ハンセン病を正しく理解する週間 sun 1882(明治15)年 新橋〜日本橋の東京馬車鉄道(後の東京電車鉄道)が開業。日本初の馬車鉄道 1943(昭和18)年 「学徒戦時動員体制要綱」決定。学生・生徒を軍需産業に従事させる 1950(昭和25)年 北朝鮮軍が38度線を越えて南に進攻し、朝鮮戦争が勃発。3日後に韓国全土をほぼ制圧1953(昭和28)年 北九州で豪雨。関門トンネルが浸水。死者1013人 今日の誕生日の花:オカトラノオ花言葉:優しい風情今日の一句:虎尾草の咲くべく木曽の高曇 宮坂静生出典は今日は何の日、毎日が記念日http://nnh.to/及びNHKラジオ深夜便から引用しています。
著者は石川県輪島の出身、それゆえ王監督の母親の先祖と同じ出身なので、王監督とは遠縁にあたる。博文館の編集者として20年勤務して、戦後には博文館の同僚と博友社を創立、約30年編集を担当した。真山青果は劇作家である。 著者が編集部に入って駆け出しのころ、頼んだ覚えのないのに「原稿ができたがとりに来ないか」と電話があり、真山青果は頼まれて原稿を書くのではなく、書きたくなると勝手に書いて、出来上がった作品をそれと覚しき雑誌社に声をかけることを知っていた編集長は、その原稿を取りに行くよう著者に命令した。 駆け出しの編集者とはいえ、せめて現行の枚数や筋立てくらいは知ったほうがいいとと思い「先生、どんなお芝居でしょうか、どのくらいの枚数でしょうか」と聞いたら「うつけ者め、真山の作品の筋立ていかにはとんでもない奴、書いただけが分量だ。黙って頂戴して帰ればよかろう」と大喝された。 「乃木将軍」という新国劇沢田正二郎の当り芸となった有名な芝居の脚本であった。著者が「譚海(たんかい)」編集長のころ いま錚々たる作家たちが、まだほとんど無名だったころであった。その「譚海」に原稿を書いていた作家の中に富田常雄がいた。山岡荘八がいた。村上元三、山手樹一郎、大林清、鹿島孝二、そして山本周五郎がいた。 これらの連中が毎月著者のところに押しかけてきて、これから書こうとする小説の筋だけほ喋りまくって、空手で原稿料をせしめていった。 何年かたって、著者は「譚海」から他の部に異動することになり、富田はじめ、山岡、大林、山手、村上の作家たちが、著者を塩原温泉のいずみ屋旅館に招いて、一晩「前借を感謝する会」を開いてくれた。前借の大代表山本周五郎が何かの都合で欠席したので、その夜の代表挨拶は富田常雄であった。 この本の座談会では、山本周五郎がいつも若い作家に意見を言って、みんなから恐れられ敬遠されていたということが述べられている。山本周五郎は医者嫌いで病院には一度も行かなかった。そのくせ専門の医学雑誌を読んでいた。自分が病気であることを知るのが怖かったらしい。医者にかからないという点では、五木寛之が似ている。やはり医学書を読んだり医者と対談をしていて、健康には関心があるのだが。 山手樹一郎というペンネームは、最初は山本周五郎が複数のペンネームを使う都合上使っていたのだが、のちに少女世界編集長の井口長次がやはり都合でもっぱら使うようになったという。 多数のペンネームを使い分けて書いた作家として、林不忘、牧逸馬、谷譲次がある(同一人物)。 著者の長い編集生活にせいで、この本には尾崎士郎や谷崎潤一郎やサトウハチローや火野葦平や獅子文六や宇野千代も出てくる。 戦後に酒が不足して、酒を飲みたいあまり、宇野千代宅に留守中進入して林房雄と泥酔しているところを女流作家たちに見つけられた場面も告白している。その中に吉屋信子もいたという。 当然、この本には江戸川乱歩も横溝正史も久生十蘭も夢野久作も入っている。
みなさん、今日は今日は何の日、6月24日UFO記念日,空飛ぶ円盤記念日UFOライブラリーが制定。1947(昭和22)年、アメリカで初めてUFOが目撃された。アメリカの実業家ケネス・アーノルドが飛行機で移動中に、時速2700kmもの速度で急降下や急上昇を行っている9機の見慣れない飛行物体を発見した。アーノルド氏はこの物体を「空飛ぶ円盤(flying saucer)」と呼び、全米で報道されると、同様の目撃証言が相次いだ。事態を重視したアメリカ空軍が、これを「UFO(Unidentified Flying Object:未確認飛行物体)」と名づけ、調査に乗り出したが、正体はつかめず、1969(昭和44)年に「目の錯覚の類」との報告を出した。この日、世界中のUFOマニアが一斉に観測を行う。ドレミの日1024年、イタリアの僧侶ギドー・ダレッツオがドレミの音階を定めた。この日に開かれる「洗礼者ヨハネの祭」の日の為に、ギドーが合唱隊に「聖ヨハネ賛歌」を指導し、その曲の各小節の最初の音がドレミの音階ができる元になった。林檎忌、麦の日歌手・美空ひばりの1989(平成元)年の忌日。ヒット曲『りんご追分』から「林檎忌」、「ひばり」という名前に因み「麦の日]1948(昭和23)年 ソ連が西ベルリンへの道路を遮断し食糧輸送を禁止。西側は空輸作戦を開始 1958(昭和33)年 阿蘇山が大爆発。死者12人、負傷者28人 1976(昭和51)年 南北ベトナム統一国会がハノイで開催。国号をベトナム社会主義共和国に決定 2001(平成13)年福井県の京福電鉄越前本線で電車同士の正面衝突事故。前年12月に続いて再び正面衝突事故を起こした為、中部運輸局の指示により京福電鉄福井支社内の全線(越前本線27.8km,三国芦原線25.2km,永平寺線6.2km)がこの日限りで運行中止今日の誕生日の花:レンゲツツジ花言葉:情熱今日の一句:牛放つ蓮華つつじの火の海へ 青柳志解樹 出典は今日は何の日、毎日が記念日http://nnh.to/及びNHKラジオ深夜便から引用しています。
著者が子どものころ、母親は自分の判断を超えるような問題にぶつかると隣村の長老ところに相談に行った。その人はイカ釣り・海草刈りのかたわら畑仕事もしていた、口数が少なく、目が輝き、据(す)わったところがあった。相談に来た母子を神棚の前に座らせ、祝詞(のりと)ともお経ともつかないような呪文を口ずさみしばらくしてから母親の「この子を盛岡の中学校によいものかどうか」というお伺いに「この子は刀を持って生まれた子だから、刀の使える道を歩ませろ」というお託宣を与えてくれた。当時は汽車はおろか、車さえ十分通じていない昭和の初めの話である。母親はすっかり決心がついて、子どもは盛岡の中学校へやり、刀を持たせるような陸軍士官学校か、海軍兵学校に進ませることに決めたのだった。当時はシャーマニズムの流れをくむ「いたこ」もいて父親が亡くなって、旅の「いたこ」を自宅に招いて「口寄せ」を経験した。その「いたこ」の言葉は的確に家族のことを反映した内容だったので著者は驚き、もしかしたら事前調査をしたのではないかと推察した。著者の専門は森林の経営なので、調査のため山村を歩くことが多かった。山村を訪れる楽しみのひとつは美味しい食べ物にあたることであった。著者が好きなものにガニ汁があった。これは川のカニのことである。カニを擂鉢で甲羅ごと砕いて、布にくるんでダシを取る。このダシ汁が絶品という。川の川ガニに対抗できるものは、山の大関の山芋である。山芋掘りの名人は、秋深く、落葉した茂みの中から、太い茎の山芋を探す。名人になると、夏場に葉をつけている時に場所の目印をつけておくのだという。名人は茎の様子を見て、どのくらいの太さか、曲がり具合から深さ加減までわかるという。スコップなど使えない藪である。ヘラと火箸のような道具で丹念に掘る。木の根や石が絡みついている。傷をつけたり、途中で折ってしまっては山芋の価値を失う。慎重に慎重に、ただひたすら掘り続ける。掘りあげたときの感激はいいようもない。本物の味、ガニ汁も山芋もなかなか手に入らない世の中になってしまった。学校教育には「めだかの学校」と「すずめの学校」があるという。その歌詞のように、放任か厳格かということであろうか。それは教育の手法にかかわることで、どちらが有効かは教育にあたるものによって対象や状況に応じて選択されるべきであろう。著者はこのほかにも老人に学ぶ過去志向型文化、仲間に学ぶ現在志向型文化、子どもに学ぶ未来志向型文化があり、その組合せが大切だというミードの説も紹介している。−−−−−−−−−−−−−−−−−−著者は岩手大学の学長を長く勤めて、岩手大学の発展に貢献した。岩手大学に博士課程ができたのも著者の功績である。さて教育は「めだかの学校」か「すずめの学校」か管理教育か子どもの自主性尊重かというとこの本にも書かれてあるように先生と生徒の組合せで結果が異なるようである。たまたまうまくいったからといって、その方法を違う先生や生徒にあてはめても同じような成果かえられるとは限らない。だいたい、人間は変わる(成長する)ものであるから同じ人間にしても、ある時期は管理された方がよい成長があるかもしれないし別な時期には自主性を尊重された方が素質が伸びるかもしれないのである。 工学部のある学科で、ある教授の研究室から多数の優秀な研究者が生まれたことを知った私は、以前に退職されたその先生の顔を思い出しながら「偉大な先生だったんですね」と言ったら、その研究室の出身の某教授が「あの先生は管理する先生ではなかったから」と答えた。先生はあまり指導はしなかったから、自分の考えで、自主的に研究して、努力の末にこうなったのだと言いたかったらしい。