最近、ブログで「壷中庵のアトリエ」というバーチャル画廊を 開設しましたが、まだ知名度が低いせいか訪問者か少ないです。 今回、更新して面目を一新しましたので、絵画好きの方、一度 覗いてみてください。 コメントなど残して下さればなお嬉しいです。 壷中庵
みなさん、今日は会員の作品ページ、川柳の更新しました。http://fmellow.s103.xrea.com/senryu/senryuda.htm5月題詠川柳「風」収録しました。どうぞご覧下さい。KAME(亀井)
関川夏央:本よみの虫干し 岩波新書753松本清張「点と線」 九州博多近郊で心中死体として発見される二人は、その一週間ほど前に東京駅で博多行特急「あさかぜ」に同乗するところ見られていた。それは列車の出入りの激しい東京駅の17:57から18:01までの4分間だけが、隣のフォームに列車が入線していなくて、その先の「あさかぜ」とそれに沿って歩く男女の姿が見えたのであるが、偶然にしてはできすぎていたと刑事には思われた。(刑事は心中事件はしくまれたものではないかと考える)「あさかぜ」は18:35発なのに、彼らは発車30分前に全車指定の列車に乗り込んでくるのは不自然ではないかと指摘するのはこの本の著者である。 「点と線」は1958年ころに書かれた推理小説で、旅とアリバイをとりあげた本格的な社会派の推理小説といわれる。それまでの探偵小説は、犯人のトリックがまずあって、その構成に登場人物をあてはめていくものが多かったから、人物の描写は不自然さが目立った。松本清張はそういう推理小説の世界に、人間の心理を描いた作家として評価された。したがって、トリックが選考する清張以前の推理小説と清張の推理小説は明らかに区別されるべきであるが、批評家の目からすれば、清張の小説もトリックゆえに小説の中の人物の行動や描写に無理があるということになる。それなら、あなたも書いてみなさい、批評ばかりしていないで、とは作家が怒ってよくいうところである。批評家は作家になれない者がやむをえず選んだ職業みたいなところがあるが、批評家によって作家も世に認められることにもなるので、お互いによい関係をもつべきなのであろうが。啄木「ローマ字日記」 なぜ啄木はローマ字日記を書いたか。妻に読まれたくなかったからという説もあるが、妻節子は女学校を卒業しているので当然ローマ字は読めたであろう。漢字やかなを使っての漢語や雅語にたよる(樋口一葉などのような)文体ではなく、ローマ字による新しい文体に挑戦したのではないかと推理するのが妥当な推理と思われる。啄木は節倹するかわりに、活動写真と女に逃避した。前借りした月給が手元にあると落ち着かない気分になり、浅草へ行って洋食を食べ、安価な娼婦を買った。「ローマ字日記」にある明治四十二年四月から六月まで、寸借と入質を含めた啄木の総収入は98円25銭だった。たまった下宿代を37円入れ、必要経費は26円ほどだった。残る35円は娼婦、酒など不要不急の出費、つまり無駄遣いであった。勤務ぶりもいい加減であった。三月はまじめに出社したが、四月は十八日、五月は二日しかでなかった。家族が上京した六月も仮病をつかってほとんど休み、そのくせ月はじめには人をやって給料を前借りした。部屋にこもって小説に専念するつもりだったが、どれも完成せず、月の下旬、下宿代の催促の時期になると歌ばかりが自然に口をついた。それは一種の精神の補償作用だった。啄木の貧乏はおもに啄木自身の責任である。結局彼は望み通りに病気になり、多額の借金債務を残し明治四十五年四月、二十六歳で死んだ。啄木は小説家としてではなく、その歌い捨てたような短歌によって記憶されることになったが、希望は往々にして、本人にとって意外、または心外なかたちでかなえられる。と啄木に対する辛口の文章が続いたのですが、この著者の主張を私は否定しません。まったくそのとおり。 借金を続けて、妻子の世話もせず、友人や周りの人々に迷惑をかけつづけた啄木、死んでみんなホッとしたことだろう。林芙美子「放浪記」 林芙美子は、その母親譲りの血ゆえに「宿命的に」共同体に帰属意識を持たなかった。守るべき規範すなわち「古里」から自由だった。二十歳代前半に三度正式ではない結婚をし、その間の日記にもとづいた手記が「放浪記」となった。流行作家となったのちは昔の友人とのつきあいを断ち、「放浪記」に実名で虚構を書かれた女性が抗議すると「私はあんなことでも書かなければ食べていくことができないのです」と言った。殴られながら男の機嫌をとり、金をみついでいた彼女だが、精神的には「他人に侵される隙がないどころか、どしどし侵す勇者だった(平林たい子)」のである。放浪記が世に出たのは昭和五年、それから彼女は流行作家となり文壇で有名となり金にも困らなくなったらしい。昭和十四年、決定版「放浪記」を出すとき、彼女は大幅な改稿を試みた。たとえば「ヘェ! 街はクリスマスでござんすとよ」を「ヘゥ、街はクリスマスでございますか」と直し、「ハイハイ私は、お芙美さんは、ルンペンプロレタリアで御座候だ。何もない」のくだりは削除した。そうして、原本の若々しい戦闘性は消え、やや感傷的なトーンを帯びた現在の「放浪記」となった。戦後、異常なまでに働いたのは、他の女性作家に書かせたくなかったからだ、という観測には真実味があった。昭和二十六年、四十八歳で突然死をとげた。過労死と思われる。不思議なほど悼む空気の希薄な葬儀をひきしめたのは、川端康成の弔辞だった。「故人は自分の文学生命を保つため、他に対して、時にはひどいこともしたのでありますが」「死は一切の罪悪を消滅させますから、どうか故人を許してもらいたいと思います」式が終わりかけたとき、少額の香典を手に近所のおかみさん連が退去して焼香に訪れ、会葬者をおどろかせた。林芙美子は、捨て身の明るさと強烈な上昇志向、意地の悪さと虚栄心、すべてをかねそなえたもいわば生まれながらの庶民であった。 放浪記を読むと精神的にどん底を迎えた彼女が死に場所を求めたのは日本海の海辺の町であった。その町を歩いていると庶民がかっこうをつけないでひたむきに生きている姿に反省させられ、駅ちかくの団子屋で買い求めた団子の甘さが彼女に生きる勇気を与えてくれた。そこから彼女のツキが変わったのである。
みなさん、今日は今日は何の日、5月28日花火の日1733(亨保18)年、隅田川で水神祭りの川開きが行われ、慰霊を兼ねた花火が打ち上げられた。ゴルフ記念日スポーツ用品メーカー・ミズノの直営店・エスポートミズノが1994(平成6)年に制定。1927(昭和2)年、第1回全日本オープンゴルフ選手権大会が横浜の保土ヶ谷ゴルフ場で開催された。1931(昭和6)年 スイスの物理学者ピカールが水素気球で高度16940mの成層圏まで上昇1980(昭和55)年 張本勲が日本プロ野球史上初の通算3000本安打を達成 1987(昭和62)年 モスクワの赤の広場に19歳の西ドイツ人マチアス・ルストが操縦するセスナ機が強行着陸 今日の誕生日の花:アマリリス花言葉:誇り、おしゃべり今日の一句:濃き墨のかはきやすさよ青嵐 橋本多佳子出典は今日は何の日、毎日が記念日http://nnh.to/及びNHKラジオ深夜便から引用しています。
> 山本周五郎:人は負けながら勝つのがいい 大和出版> > この本の中にある第一章に相当するところです。> 中央大学会館での文芸講演うふうに私は考えるのである。> あるときの、ある事件や人物について、資料を集めてみると、面白いことに必ずといっていいくらい混乱していて、どれもこれも、同一の趣旨を記述していることはめったにない。> たとえば、赤穂義士の場合であるが、......>赤穂藩の家老であった大野九郎兵衛という人は、>赤穂城解散のとき大金をもって逃げた卑怯者ということになっているが、>実際は、大石内蔵助の四十七士が第一陣で、>それが失敗した場合には大野九郎兵衛が第二陣をひきいて望みを果たそう、>という計画だったそうである。 さきほどは時間の関係で、続きを書くことができなかったので その続きを書いて、まとめることにします。そういう大野九郎兵衛の役割があったということを、歴史的には発表できないが文学としてならできそうである。文学の場合は、そのときの社会情勢、それから経済情勢、通貨の換算比率物価、米の相場、天候、そういったものから推し進めてまわりから検討していくとそのとき家臣であったが、歴史にのこらずに散逸してしまった人たちの模様なども類推していこことができるだろう。大野九郎兵衛が、大枚の金をもって逃げたというのは真実ではなく、第二陣の指揮者であったということがあんがい明らかにうきぼりされるかもしれない。それは歴史的事実としてではできないが、文学の世界でなら、歴史上の人物を登場させてひとつの文学作品としてまとめることは可能であろう。そしてこの講演におけるまとめとして著者は、文学というものは、政治や経済、権力から分離した、そういうものの力の及ばないところに、強力な自己主張をするものであると述べている。そして、この結論からして当然であるが、文学に大きな影響を与えたマルキシズムをとりあげ、いわゆるマルキシズム文学からの決別を主張している。われわれは、マルキシズムから、文学にとって栄養分になるものを吸収することはたいへん結構なことだと思うが、マルキシズムという立場からものを考えたり、そういう立場の一つの鋳型から人間生活や人間の感情をうちだしてはならないと思う。それはもはや、マルネキシズムがいかに真理であっても、それはマルクスに仕えるものであって、文学というものは、最大多数の庶民に仕えるものでなければならない、と思うからである。マルキシズムは思想的にもすでに歴史的な存在であり、今日ではマルキシズムが万能であると考えている人たちはないと思うのだが、マルキシズムから出発した革命思想というもののために、文学でも美術でも音楽でも、すべて、かくなければならないと青年たちが考えるのは、これは若いエネルギーなんであって、そういう若いエネルギーの時代は、一種の洗礼であり、その洗礼を通りこすということは、私は賛成なのであるが、できるだけ早くそこから抜けてほしいと思う。ちょうど、文学というものが、歴史に左右されないで、歴史から養分を吸い取る、歴史のなかから、もっとも普遍妥当性を取り上げるのと同様の立場をとってもらいたい。いかなる思想、いかなる新しい社会主張にも左右されず、いつでも文学は文学として、どんな権力にも屈することなく、自由に人間性を守ってゆく、この情熱を失わないようにしていきたい。これが文学であろうかと私は思うのである。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー文学は、政治や経済、権力から分離したものであるべきというのは、よく言われることであるが人間は弱いもので、この世の中はいろいろ力をもった人がいたり支配したいという見えない力の勢力範囲があるようだから完全な独立はむずかしいのではないかと思う。だからこそ、文学の独立性がいつも主張されるのであろう。、
山本周五郎:人は負けながら勝つのがいい 大和出版この本の中にある第一章に相当するところです。中央大学会館での文芸講演歴史小説という言葉があるが歴史は歴史、小説は小説。 歴史と小説は別個のものである。歴史というものは、概括して、そのときの政治のかたち、ないしはそのときに政治を左右する権力のあり方によって、修正されたり、改ざんされたり、ある場合には抹殺されたり、捏造されたりするものと思う。その例として、大東亜戦争のときの大本営発表である。 「かくかくたる武勲」というのが謳い文句のようになっており、しばしばラジオを聴いている国民を興奮させたものであった。あの戦争が終わって、軍閥政治が倒れて、形なりにしろ民主政治の世の中になり、大本営発表というものがいかに欺瞞にみちたものであるか、どんなに嘘っぱちなものであるか、ということが明らかにされた。終戦直後に若い友人たちと一緒にカストリをのんで景気をあげているとき、誰かがひじょうにうまそうな話をすると、「なんだ、それは大本営発表じゃないか」と誰かがマゼっ返したものだった。つまり時代が逆転すると、大本営発表というものは嘘の代表ということになったのである。このように、日本は敗戦によって民主政治の世の中になって、あらためて軍閥政治の嘘やデッチアゲなどが明らかにされたわけだが、果たしてそれが真実かというと、そうでもない。軍閥政治の虚構や悪だくみをあばくために、かえって逆に、それを否定することに急であって、真実でない誇張がないとは言えないと思う。坂口安吾が、小林秀雄と対談した記録のなかに、「歴史の中に文学はない」という意味のことをはっきり言っている。これは明らかにそうなのであるが、たとえば「藤原道長日記」で「何年何月何日に、自分は昇殿をした」あるいは「何年何月何日に、なんとかの宮が岩清水八幡へ参詣された」という記事からは文学は生まれてこないと思う。道長が何月何日に坊主になったという「道長日記」よりも、「大鏡」の中の、西の京のはずれで、餓死した人間の死体が藪に捨てられてあって、それを犬が食っていた、という記述のほうに、普遍的な人間性が ー 実際の庶民生活や、人間の本質性に関連のあるイメージをつかむことができると思うのである。実際には、その西の京の藪の中に死体が捨てられて、犬がそれを食っていた、という事実はなかったかもしれない。それは事実ではなくて、そう記述した人の創作であるかもしれないと仮定したとしても、そういう創作がありえた、ということは、その背景をなす社会情勢を物語っているのではないかと思うのである。「道長日記」から言えることは、貴族階級の日常生活や、藤原一門と天皇と宮廷の関連性、これは特殊な歴史文学者には問題はあるだろうが、文学という人間全体の関心をあつめる普遍的な問題とは、そう深いかかわりあいはないのではないかというふうに私は考えるのである。歴史というものは、先にも述べたように、そのときの権力や政治の形によって、きわめて容易にいろいろ変えられるものである。権力者や政治の当路者だけではなく、歴史を記録する人の、好悪、選択によっても、いろいろ変えられるものである。あるときの、ある事件や人物について、資料を集めてみると、面白いことに必ずといっていいくらい混乱していて、どれもこれも、同一の趣旨を記述していることはめったにない。たとえば、赤穂義士の場合であるが、私の若いころの友人に、大石内蔵助の子孫がいた。その友人の家に、いろいろ義士の仲間でやりとりした書簡などの資料が残っているが、それによると赤穂藩の家老であった大野九郎兵衛という人は、赤穂城解散のとき大金をもって逃げた卑怯者ということになっているが、実際は、大石内蔵助の四十七士が第一陣で、それが失敗した場合には大野九郎兵衛が第二陣をひきいて望みを果たそう、という計画だったそうである。これは、大石内蔵助と富ノ森助右衛門という義士の一人との間に取り交わされた手紙があって、私もそれを読んだことがある。しかし、そうだからといって、これが真実であったかどうかということは、歴史では立証することはできないと思う。
みなさん、今日は今日は何の日、5月27日百人一首の日1235(文暦2)年、藤原定家によって小倉百人一首が完成された。藤原定家の「明月記」の文暦2年5月27日の項に、定家が親友の宇都宮入道蓮生(頼綱)の求めに応じて書写した和歌百首が嵯峨の小倉山荘(嵯峨中院山荘)の障子に貼られたとの記述があり、この記事が小倉百人一首の初出ではないかと考えられている。日本海海戦の日1905(明治38)年のこの日、日本海海戦で東郷平八郎が率いる日本艦隊が、ロシアのバルチック艦隊に対して大勝利を収めた。後に「東郷ターン」と呼ばれる丁字型陣形をとり、敵艦に対して一斉射撃をして大勝利を収めた。 *(旧)海軍記念日日本海海戦を記念し、戦前は記念日になっていた。1945年の第二次大戦敗戦の後、「陸軍記念日」とともに廃止された。1937(昭和12)年 サンフランシスコのゴールデンゲートブリッジ(金門橋)が完成 1979(昭和54)年 石油節約の為、ガソリンスタンドが日曜・祝日の全面休業を開始 1980(昭和55)年 中華人民共和国の華国鋒首相が来日。史上初めて中華人民共和国の最高指導者が来日 1998(平成10)年若乃花が第66代横綱に昇進,兄弟で横綱が出来た。今日の誕生日の花:エビネ花言葉:謙虚な恋今日の一句:夕べまだ子供のあそぶ麦の秋 脇村禎徳 出典は今日は何の日、毎日が記念日http://nnh.to/及びNHKラジオ深夜便から引用しています。
> ローマの最高権力者も政敵はつきもので最後は暗殺されてしまう。> 暗殺された時の言葉「ブルトゥス、お前もか?」は有名だが、これはこれはシェイクスピアの戯曲「ジュリアス・シーザー」の台詞なので、シェイクスピアの創作であろうか。 たとえば、長谷川博隆氏の『カエサル』に「カエサルは、ブルートゥスが剣をふりかざすのをみて、「お前もか!わが子よ!」と叫んだと、伝記作者は伝えている。と書いています。また皇帝秘書官だったスエトニウス☆も『ローマ皇帝伝』(上86ページ)に、ある伝えによると、と断った上、同様の話を記録しています。歴史学者の村川堅太郎氏他編纂の「ギリシャ・ローマの盛衰」にも、この言葉は載っています。 ラテン語のtu quoque bruto fili miを訳すとたしか、そのようになるようですが、スエトニウスではここがギリシャ語になっていて。この子とか、息子とかがよく紋題になるようです。これは実子というのでなく、若造の意に取ったほうがいいとか、あっしにはそういう難しいことは一切分かりませんが…。(-_-;) また暗殺者もひとりではなく、ブルータスはそのグループの一員というのがほんとうのようです。 というわけで、もともと大昔の本に出ていることなので、この台詞は後世のシエイクスピアの創作ではありませんでしょう。 ☆西暦70年ころ出生。
みなさん、まいど。> 今日は何の日、5月25日> 食堂車の日> 1899(明治32)年、山陽鉄道・京都〜三田尻(現在の防府)で日本初の食堂車が走った。一等・二等の乗客専用で、メニューは洋食のみだった。 これは、知っていたけどーーー > 有無の日> 第62代天皇・村上天皇の967(康保4)年の忌日。> 村上天皇は、急な事件のほかは政治を行わなかったことから。 これは、しらんかったなあ。 有無の日、て何がどうなって、有ったり無かったりするのでしょう??? Toshichan in Kyouto-fu
古典中の古典ユリウス・カエサル著中倉玄喜翻訳・解説 PHP研究所 2008この本では ガリアを 内ガリア(アルプス山脈の南側つまりイタリア北部) 外ガリア(アルプス山脈の北側つまりフランスを中心とする地域) に分けている。そこには主にケルト人が住んでいた。カエサルは、ガリー人(以後私はガリア人と書く)がという言葉を、ガリアに住む人の意味で使っていた。ガリア人は農耕生活者であった。外ガリアの西側にゲルマニー人(以後私はゲルマン人と書く)が住んでいたようである。ゲルマン人は狩猟生活をおくっていた。一部のゲルマン人は騎兵部隊としてローマ軍に所属していた。同様にガリア人の一部もローマ軍の兵として参加していた。現在のフランス人は、ケルト人、ローマ人、ゲルマン人(フランク族)などの混血によってできたと考えられる。現在のドイツ人は、ゲルマン人の子孫である。カエサルはBC63年に選挙で最高神祇官(じんぎかん)、Pontifex Maximus ポンティフェクス・マクシムスとなる。ローマには伝統的なローマ神については専任の神官が存在せず、その職は高い権威と人格を認められた一部のエリートが市民集会の投票で選出された。ユリウス・カエサルは、大量の借金をして買収工作でもって37歳という若さでこの最高神職に就任したのである。なお、Pontifex Maximusは現在のローマ教皇の称号でもある。ポンティフェクス・マクシムスはキリスト教以前のローマ神の最高神祇官であったものがキリスト教の聖職者の最高位をしめす称号に変わったというわけである。ガリア戦記で自分の戦勝記録をまとめ、今日まで高い評価を得たもののローマではあまりに権力をもちすぎて周りから恐れられたらしい。自分が政敵から葬られそうになったことを知って対決することを決意する。 ルビコン川を渡る時、彼は「賽は投げられた」と言った。 そして敵対したポンペイウスを排除することに成功。エジプト平定後、カエサルは親密になったクレオパトラとエジプトで過ごしたがゼラの戦いでファルナケスを破った。 この時、ローマに送った戦勝報告に、「来た、見た、勝った」の言葉があった。ローマの最高権力者も政敵はつきもので最後は暗殺されてしまう。 暗殺された時の言葉「ブルトゥス、お前もか?」は有名だが、これはこれはシェイクスピアの戯曲「ジュリアス・シーザー」の台詞なので、シェイクスピアの創作であろうか。