Toshichanさん、カッコウさん、KAMEさん、みなさん、こんばんは。こちらでは100度が目安になっているようです。去年手術したとき、けっこう大きな筋腫をとった手術でしたけど、それでも点滴瓶がささった状態で日帰りでした。お医者さんは熱が100度超えたら電話しなさい、と。100度って、摂氏だと38度なんですね。たしかに、7度台なら微熱って感じだからいいんでしょうね。でも、100度っていうと、煮えちゃうみたいな気がします。ははは
みなさん、今日は今日は何の日、5月15日国際家族デー(International Day of Families)1993(平成5)年9月20日の国連総会で制定。国際デーの一つ。沖縄本土復帰記念日,沖縄復帰記念日1971(昭和46)年6月17日に宇宙中継によって東京とワシントンで結ばれた「沖縄返還協定」、1972(昭和47)年5月15日午前0時をもって発効し、沖縄の施政権がアメリカから日本に返還され、沖縄県が誕生した。日本政府側は「本土並み」の復帰を目指したが、実際には30以上の米軍基地や弾薬庫、演習場等が残され、その面積は全県の12%にも上った。ストッキングの日1940(昭和15)年、アメリカのデュポン社がナイロン・ストッキングを全米で発売した。それまでアメリカのストッキング市場は日本の絹製のもので独占されていたが、これ以降、ナイロン製のものに王座を明け渡した。国際家族デー(International Day of Families)1993(平成5)年9月20日の国連総会で制定。国際デーの一つ。ヨーグルトの日ヨーグルトを研究したロシアのメチニコフ博士の誕生日。明治乳業が制定したが、現在では特にイベントは行っていない。メチニコフ博士はブルガリアに長寿者が多いのはヨーグルトに含まれる乳酸菌のためであることを突き止めた。また、免疫に関する研究によりノーベル生理学・医学賞を受賞した。5.15事件記念日1932(昭和7)年、5.15事件が起った。海軍の青年将校・古賀清志中尉らと陸軍士官学校の生徒らが首相官邸等を襲撃し、犬養毅首相が射殺された。国家改造、軍部政権樹立のため、東京を混乱に陥れようとしての決起だった。翌日、内閣は総辞職し、海軍大将斎藤実を首班とする挙国一致内閣が発足して、政党内閣制に終止符が打たれた。前日に来日して犬飼首相と面会する予定だったチャップリンも標的になっていたが、直前に急遽予定を延期して大相撲観戦に行った為に難を逃れた。聖ソフィアの日聖ソフィアは天候の変化を気遣うやさしい聖女として信仰されている。5月の寒暖の激しさに体調を崩さないように配慮してあげる日。1923(大正12)年 白木屋神戸出張所が、百貨店で初めて土足で入店できるようにする 1964(昭和39)年 太平洋横断海底電話線が完成 今日の誕生日の花:シキザキベゴニア花言葉:幸福な日々今日の一句:万緑の中や吾子の歯生え初(そ)むる 中村草田男出典は今日は何の日、毎日が記念日http://nnh.to/及びNHKラジオ深夜便から引用しています。
ぷわらさんこんにちは。昔友人とアメリカを旅行したとき、友人が風邪を引き熱をだしたのでドラッグストアで体温計を買ってきました。計ったら100度近いのでびっくりして換算式を思い出すのに四苦八苦でした。幸い持参の風邪薬で事なきを得ましたが。カッコウ > そうなんです、こちらは華氏なんです。> これに慣れるのにずいぶん時間がかかりました。
> 松原久子:日本の知恵 ヨーロッパの知恵 三笠書房 1985> この本はまずドイツ語で出版され、その後日本語で出版されたものである。すこしだけ具体的な内容の紹介をしましょう。異文化に対する拒絶反応が強いヨーロッパ ヨーロッパの国々は隣国と陸続きのため、いつどこからでも敵が侵入できる。だから、ヨーロッパ人の意識の中で隣国は脅威である。侵略された経験は歴史のはじめからある。ゲルマン民族の大移動に伴う暴行、虐殺、占領はもとより、のべ三回にわたるユーラシア中央部からの騎馬民族大侵入によるゲルマン諸部族の壊滅、混血、そして征服。ローマ帝国崩壊から十二世紀までのヨーロッパ未開時代における暴力の蔓延と、それをイスラム圏に向けて組織して十字軍遠征。宗教改革に伴って全ヨーロッパに波及した宗教のための凶暴な殺し合い。オスマントルコ大群の侵入と占領。 今でもドイツには「スウェーデン人が来る」という慣用句がある。三十年戦争の頃、スウェーデンのグスタフ王が軍隊の移動に伴う兵糧運搬費を節約するため、兵士たちに侵入した地域の住民から略奪することを命じたのである。飢えた大軍がいっせいに町や村々に侵入し、根こそぎ略奪し、暴行、殺害、放火をほしいままにした過去がまだ傷痕を残しているのだ。三十年戦争で各国の軍隊が入り乱れたドイツでは、結局二百万人の住民が生き残ったにすぎない。 このような環境に何世紀もの間息づいていれば、侵入者や征服者に対する反感と、必ずいつか仕返しをしてやるという敵愾心を内面に培ってきて当然であるが、同時に異質の文化に対する不信感や猜疑心も今日のヨーロッパ人に受け継がれている。異質の文化は必ず征服者が押し付けた文化であり、憎たらしい文化である。もちろん、国際化時代なので、ヨーロッパの日常生活にも異国情緒に充ちた室内装飾品や料理、外来語や外来知識が見かけるが、それらは自分たちの本質には触れない無害なものであると思われる限り無抵抗に受け入れられているのであって、心の中では外来文化に対して常に武装して、自分たちの習慣に合うか否かを不審の目で吟味し、懐疑的な態度を保ち続けるのである。 しかし、外来文化の中にはよりか優れた技術、役に立つ知識、うっとりするほど美しいものがあって、ヨーロッパ人といえどもそれを自分のものにしたいと思うことがある。そういうときは、そのような欲望はおくびにも出さないでおいて暗黙のうちに取り入れ、取り入れたあとで「よく調べてみるとこんなものはもともとわれわれの文化の中にも一つの要素として見出される」とか何とか言って正当化せずには気がすまない。やすやすと感心して嬉しそうに異文化を受け入れたとは絶対に思われたくないし、そういう面目丸つぶれには耐えられない。異文化を受け入れることは自国の文化を裏切り、自分のアイデンティティを失うことだという苦い歴史的経験がついてまわるのである。 これとは全く違った地理的環境に置かれているのが日本である。ユーラシア大陸の東の果て大海の中にちらばる四つの島と四千近い小島からなる日本国は、隣国朝鮮とは海を隔て、その海もドーヴァー海峡のごとく泳いで渡れるような静かな小さなものではなく、もっとも短距離間でも百五十キロメートルに及ぶ。波は荒く、嵐や台風もやってきて、昔から何隻の船が消えていったかわからないほど危険であった。こうした地理的条件のおかげで、日本人はただの一度も異民族の征服や彼らによる圧制を体験せず、二千年余りを過ごしてきた。 もちろん、古来大陸から多くの氏族が日本へ渡って来たが、彼らは日本人に改宗を迫ったり、少しでも抵抗すれば根絶やしにするような野蛮きわまりない征服者としてではなく、大陸の豊かな洗練された文化をお土産に日本へ帰化し、日本の風土にとけ込んでいった。日本からも危険な旅を敢えて行い、大陸へ渡って隋や唐の先進文化を学び、帰国後、政治、社会制度、天文、医療、文学、芸術、建築、農業技術など、いろいろの分野に大きな影響を与えた人々も多い。 外来文化を目前にしても本能的に警戒したり拒絶反応を示す日本人はまずいない。それどころか、何でも触ってみなければ気のすまない子供のように、その未知なるものを自分の頭と手で把握しようと、裏返してみたり分解してみたり、たたみ直してみたりして熱中し、そのうちに飽きてぽんと捨てるかと思うと、改良して日本化し日本の流れに乗せてしまう。また学術思想でも何でもやたらに有難がり、本国では誰も意図しなかったような高尚深遠な解釈を与えて信奉するし、特に英米仏独からの知識は大切に記録し、時あるごとにその出所を強調する。 めまぐるしいほど何でも取り入れようとする日本人のエネルギーは、憎らしそうに歯ぎしりしつつ外来文化を横目にみてなかなか手を出さず、手を出せば威信にかかわるとやせ我慢しているヨーロッパ人の内的葛藤とは対照的である。ヨーロッパ人にとって他から、特に異文化圏から学ぶということは文化的敗北を意味し、自分の劣等性を天下に白状したことになり、そんな赤恥をさらすくらいなら死んだほうがましなのである。日本人は昔から何事も自分より優れるものがあれば、まずそれを師匠にいただき、あるいは手本として、何から何までまねることによってそのものを次第に自分のものにするというまなび方をしてきたので、この日本的学習の伝統は今日でも根強く生きている。自分より優れるものが外国品であっても、それを真似て、すなわち学んで、いつの間にか自分のものにすることは日本人の沽券に関わるどころか面目を施すことになる。--------------------宗教のことや大航海時代の各国の行動など、興味深い記述が続きますが、今回は省略します。ヨーロッパ各国の異文化に対する態度、自国の文化を異常に守ろうとする姿勢の文章を読むと中国大陸や朝鮮半島における隣国を連想します。やはり、日本の隣国もアジア大陸にあれば、陸続きで異民族の侵入を受けた歴史がたくさんあるので、事大主義ということにこだわるのも、自国保身のなせることなのかもしれません。日本のように異文化に対する抵抗感のない国は珍しいのでしょう。日本の隣国に残る事大主義、それも日本に対する劣等感、あるいは恐怖感の裏返しなのかもしれません。韓国が日本文化(映画や歌謡曲など)を開放政策をとったのは最近のことで、それまで閉鎖していたのは、自国の文化を守るため、そうしないと日本文化に飲み込まれてしまうという恐怖があったのでしょうか。
> KAMEさん、みなさん、まいど。> > > 温度計の日> > 水銀温度計を発明し、華氏温度目盛り(°F)に名前を残すドイツの物理学者ファーレンハイトの、1686年の誕生日。> > そうなんです、こちらは華氏なんです。> これに慣れるのにずいぶん時間がかかりました。> 今でこそピンと来るようになりましたけど、> 「きょうは寒いねえ、30度を切ったよ」なんて言われてもねえ。 うーん。体温計が100度(F)超えてたら、人間沸騰状態なんやなあ(゜ロ)ギョェ Toshichan in Kyouto-fu
KAMEさん、みなさん、こんばんは。> 温度計の日> 水銀温度計を発明し、華氏温度目盛り(°F)に名前を残すドイツの物理学者ファーレンハイトの、1686年の誕生日。そうなんです、こちらは華氏なんです。これに慣れるのにずいぶん時間がかかりました。今でこそピンと来るようになりましたけど、「きょうは寒いねえ、30度を切ったよ」なんて言われてもねえ。ちなみにこのところ寒いくらいで、今は57度です。摂氏だと13度くらいです。
松原久子:日本の知恵 ヨーロッパの知恵 三笠書房 1985これは亀井勝一郎:日本の智慧・ヨーロッパの智慧 三笠書房 1962を意識して書かれたもののようである。内容はかなり違うが。ここでとりあげる本の中では、かなり中身のあるしたがって読むのに時間のかかる本であった。自分としても十分には読みきれていない感もあるが、とりあえず紹介しておきます。 あとで機会があればまた読み返したいものです。松原久子:日本の知恵 ヨーロッパの知恵この著者は国際基督教大学を卒業してから、ペンシルヴァニア大学修士課程を終了後、当時の西独ゲッティンゲン大学で研究生活をおくり日独比較文化史のテーマで博士号を取得した。この本はまずドイツ語で出版され、その後日本語で出版されたものである。著者が見た欧米での「日本と日本人に対する誤解と偏見」を念頭にこの本を書いたようである。したがって、強い自己主張、日本主張がある。一部の日本人にとっては、この本に書かれてあることは書きすぎであるという感じをもつかもしれない。しかし、欧米では沈黙は馬鹿にされることであって、思うことは堂々としつこく主張することが尊敬されることなのである。この著者はだから尊敬されていると思う。欧米人は、日本人は真似が上手であるというが、内心では「真似」とは「盗み」と同義語だと思っている。著者は当然、日本人は真似から入っていったが、やがてオリジナルなものを作っていったと主張する。私も当然と考える。ヨーロッパの歴史を考えるなら、彼らこそ真似で今日まで生きてきたかもしれない。火薬も羅針盤も東洋の発明である。化学も数学も、イスラムで育てた学問を密かに取り入れながら、その歴史をあからさまに発表していない(認めたがらない)ヨーロッパの実態がある。もちろんヨーロッパ人の化学や数学に対する貢献は大であるが、その先人のイスラムの学問レベルを不当に評価しているのも事実である。(ユーラシア大陸を統一して経済活動や文化交流に一定の功績のあったモンゴル帝国も、ロシアや中国から不当に評価されている。どうしても人間はバイアスという色眼鏡でものを見る傾向があるようだ。最近の日本の若い歴史家は、そういう色眼鏡でなく、歴史の真実を見ようとしてモンゴルの再評価の研究を行っている)ヨーロッパの一神教の厳しい世界に対して、東洋の日本の多神教とは相対性を認めるふところの深い宗教であることも述べている。この本が現代ももっと読まれることを期待する。 ------------------------------亀井勝一郎:日本の智慧・ヨーロッパの智慧こちらは一段と読むのに疲れる本でした。昔はこういう内容の充実した本が多かったような気がします。若い人にこういう本を読めと薦めても、はたして読むだろうかどうか。たとえると、スルメか沖縄の豆腐みたいに歯ごたえがあるもの。それに対して現代の本はプリンとか子供用ハンバーグみたいな歯を堕落させるような食べ物に似ていると書けば、どこからか抗議が飛んできそうですが。無用の用ということ すべての芸術派はそれ自身の読者に向かって、絶えず何事か話しかけ、期待し、また逆に話しかけられることを望んでいるものである。読者あるいは見物人を無視した芸術は存在しない。ところがそのむすびつきは極めて独特であって、必ずしも生活や精神の上に直接的効果を及ぼすとはかぎらない。われわれはとかく功利的ないしは合理的に傾きやすく、ある芸術に接した場合、それが一体何の役に立つかと問うことがある。 元来わが国では、政治家あるいは一般社会が、芸術を遇する道という点にかけて甚だおくれた面があった。たとえば徳川時代には、今の小説家にあたるものは戯作者とよばれ、その社会的位置はきわめて低かった。役者は川原乞食として軽蔑されていた。 こうした風潮は、明治以降になってもなお強く残っていた。たとえば森鴎外の語録の中にこんな感想が載っている。「文学国を滅ぼすというものあり」「文士は楽隊のごとし、一朝事あるときはなに用もなさずと罵るものあり」これはおそらく日露戦争の頃の世論ではなかったかと思う。政治家や軍人だけでなく、一般社会人も、文学および文士に対してこういう考え方を抱いていた。 この風潮は、実は敗戦の日までつづいていたといっても過言であるまい。つまり芸術の実用性のみを重視してきた。「国家の役に立つ」芸術という側面から、戦争をはじめ時局への協力を求め、その点で圧迫さえこころみたことは誰もが経験してきたところであったろう。時の政府の方針にたてつくような印象の作品を書こうものなら、圧迫や弾圧を受けた例はいっぱいありましたね。権力者に迎合したほうが楽ですから、そういうことをして後から批判された人も少なくないのです。 芸術の実用性という点から言うなら、プロレタリア文学もまたその点で同質の誤りを犯してきたといえる。少なくともその初期において「政治と文学、政治の有用性」ということが強調された。文学者プロレタリア文学者として発展してゆくためには、文学よりも政治を重んじなければならない。政治に従属するもの、党派に従属するものとしてのみ認められた。 同じ誤りは宗教芸術の場合にも起こりうる。ある宗教を伝道するための芸術、その意味での功利性を帯び、説教臭さをあらわすことで芸術的感銘を希薄にするといった場合もある。すべての芸術が一定の政治、思想、信仰に奉仕し、その宣伝と化するようになってはおしまいである。 しかし、この逆の場合もまたひとつの危険を伴う。芸術家たちがその独自の性格だけを強調することによって、独善性におちいる場合である。孤高を心がけるのはいいが、それが社会からの遊離をもたらしてはなるまい。 すべて芸術作品と民衆(読者)とのつながりとは、妥協することではない。あるいは民衆を上から見下すことでもむろんない。いわば独善にも偏せず、妥協にも偏せず、その中間においてのつながりでなければならない。 なんとなくわかるが難しいですね。つかず離れず、そのバランスを保つことは。空の空なるかな 旧約聖書の「伝道の書」を読む人は、そこに語られた人生の悲哀と無常感に東洋的なものを感じるでしょう。まるで仏典を読んでいるような気がすると著者も書いています。そう、般若心経に通じるものがあります。 智慧多ければ憤激(いきどおり)多し、知識を増すものは憂患(うれい)を増す。 それ夢多ければ空なること多し、言詞(ことば)の多きもまた然り。 伝道の書は信仰について語るよりも、むしろ懐疑の声を次々と放っているわけで、信仰にとっては危険な書といえるかもしれない。しかし旧約聖書の中に敢えてこれを収めたところに、著者亀井は西洋の古人の深い智慧を感ずると書いている。人生への深い懐疑なくして、信仰はないのみならず、信仰そのものへの懐疑もまた必要である。むしろ必然的につきまとうものである。言ってみれば対決の精神のないところに信仰そのものも鍛えられないのであろう。(伝道の書は、このように人生は空しいものであるから、神を信ずるべきであるというふうな結論になっている)空の鳥を見よ 明日のことを思い煩うな、明日は明日みづから思い煩わん。一日の苦労は一日にて足れり。 空の鳥も野の百合もたんたんとして生きている。人間のように余計なことをしないし思い煩っていないというわけでしょうか。仏教でいう日々の自己放下を、自然の生物に託して語っているように思われる。いわば一種の楽天主義なのだ。一日の労苦という本来ペシミシズムにみたされている筈のものを、それにとらわれることなくそのまま放下して、空の鳥に帰れといっているのだ。 キリストの教えは十字架によって完璧なものとなる。それはたしかなことだ。しかしあの流血の悲劇だけを強調するのが正当であろうか。仏教には十字架はない。むしろ空の鳥、野の百合の比喩にみられる自然同化に救いをみる。キリストの心にもそれのあったことを、マタイ伝のこの一説は示しているように思われる。 そう亀井勝一郎は説くのであった。
みなさん、今日は今日は何の日、5月14日種痘記念日1796年、イギリスの外科医ジェンナーが初めて種痘の接種に成功した。種痘の登場以前は、天然痘は最も恐ろしい病気の一つだった。発症すると、高熱に引き続いて、全身に化膿性の発疹ができるため、運良く治った人もあばた面になった。以前より、一度天然痘にかかった人は、二度とこの病気にならないことが知られていた。また、ジェンナーは、乳絞りの女性から牛痘にかかると天然痘には罹からないことを聞いた。そこで、牛痘にかかった乳絞りの女性サラ・ネルムズの手の水疱からとった膿を、近所に住んでいた8歳の男児フィップスの腕に接種した。10日後に発症したがすぐに治癒し、その後天然痘を接種しても感染しなかった。この実験は、学会には認められなかったが、ジェンナーは貧しい人たちに無料で種痘の接種を行い、次第に認められるようになった。天然痘による死亡者は劇的に減少し、1979(昭和54)年10月末に世界保健機構(WHO)によって根絶が確認された。温度計の日水銀温度計を発明し、華氏温度目盛り(°F)に名前を残すドイツの物理学者ファーレンハイトの、1686年の誕生日。華氏温度は、塩化アンモニウムを寒剤として得られる当時人間が作り出せた最低温度を0度、人間の平均体温を96度とし、その間を等分して得られる。この温度目盛りによると、水が凍る温度は32度、沸騰する温度は212度となる。ファーレンハイトが1724年に発表し、現在では主にアメリカ・カナダ・イギリスで用いられている。中国では、ファーレンハイトに華倫海の字を当てたことから、「華氏」と呼ばれるようになった。1878年 紀尾井坂の変。維新の元勲・大久保利通が石川県士族らにより暗殺 1910(明治44)年 ロンドンで日英博覧会開催 1932(昭和7)年 チャップリンが来日 1945(昭和20)年 B29爆撃機480機による名古屋大空襲。名古屋城が焼失 1948(昭和23)年 イギリスによる委任統治が終結しイスラエルが成立。1942年ぶりにユダヤ国家が復活 1971(昭和46)年 第48代横綱大鵬が引退。初の一代年寄に 1991(平成3)年 滋賀県の信楽高原鉄道で普通列車と臨時の快速列車が衝突。死者42人 1991(平成3)年 第58代横綱千代の富士が引退 今日の誕生日の花:シラン花言葉:互いに忘れない今日の一句:雨を見て眉重くゐる紫蘭かな 岡本 眸 出典は今日は何の日、毎日が記念日http://nnh.to/及びNHKラジオ深夜便から引用しています。
この慣わしって、ほんとは世界中にあるらしい。日本でも一時あったらしい。フランス、イタリアはもとより、ロシアや、ベルギー、ウクライナ、リトアニアなど、いくらもあるらしい。イタリアもローマだけでなく、フィレンツェ、ヴェネツィアでも。中国では川ではないけど、山の天辺に同じようなのがあるということだ。 あるサイトで、パリの橋の場合、世界中の旅行者がカギを取りつけており、たとえばマルクス&アリサの隣が、マサトシ&アヤコとなっているなど、書いている。 もう浮気はゆるされないかんね、この通り、ちゃんとカギかかってるかんね、ってつもりなんかなあ。ところで、これって、アメリカにもあるんかなあ。(^_-)-☆ぷわらさん、ここ読んでる?たとえばゴールデン・ゲート・ブリッジなら、いくらぶら下げても壊れるようなことはない、と思うけど…。(^_-)-☆
もしかすると、これってイタリアが発祥かも。フェデリコ・モッチャとかいう流行作家が小説のなかで、ローマのミルヴィオ橋の、三番目の街灯に愛のカギを取り付けて、あとテーヴェレ川にそれを投げ込めばふたりの愛は永遠のものになる、とかなんとかバカなことを云った紋だから、それを読んだミーハーのバカどもが我も我もやったらしい。ところがその量たるや、生易しいものではなかったので、ついに街灯のついた柱もその重みに耐えかねて、あっという間にメリメリメリッと、大きな音を立ててへし折れてしまったとか。←なんでも、真似すりゃいいって紋じゃない。(^_-)-☆ モッチャは、昨年度の売れ行きランク表で、紋たるバーノ刑事で有名なアンドレア・カミレッリにせまる3位を獲得したらしい。なお、一位は現ローマ教皇べネディクト16世の著書。(レプッブリカ紙)