遠山 美都男: 蘇我氏四代の冤罪を晴らす、学研新書 040 「日本書紀」には、中大兄皇子と中臣鎌足(藤原鎌足)の二人が中心になり、蘇我氏の野望を阻止したと書かれている。蝦夷や入鹿は大王の地位を窺い、大王家に取って代わろうとしたので滅ぼされたのだ。 天智天皇の諡号は「天命開別あめみことひらかすわけ」天皇で、「天帝の命令を受けて王朝を開いた高貴な御方」を意味する。天智天皇は蘇我氏から権力を奪還し、王朝を再興した英雄的な天皇とされている。だが著者は蘇我稲目、馬子、蝦夷、入鹿の四代は王権簒奪を企て乙己(いつし)の政変により粛正されたとする日本書紀の記述をめぐって日本書紀の一部は後に改竄されたのではないかという説を述べている。 中大兄皇子の台詞「鞍作(入鹿)は、天孫たる大王一族を悉く滅ぼして、大王の位を我が物にしようと企んでおりました。どうして天孫を鞍作に代えることができましょうか」 A 鞍作尽滅天宗、将傾日位。豈以天孫代鞍作乎。 B 鞍作将滅天宗、而傾日位。豈以鞍作代天孫乎。中大兄皇子の台詞を正しく漢文にするとBとなるはずだが、日本書紀にはAのように記載されている。他の大部分は漢文をよく知った者のてによって書かれているのに、一部だけ文法的に正しくない漢文になっている。これはおそらく後世に漢文力不足の日本人が書き直した箇所であろうと著者は推定する。つまり、改竄された日本書紀に書かれてあることをそのまま正しいと考えるべきではないということ。蘇我氏が王権簒奪を企てたということは疑問であると著者は述べる。中国「宋書」倭国伝によると、倭王の珍と済との間に血縁関係を表す言葉は見つけられず、当時の日本では、大王は複数の一族の中から擁立されていたと考えられる。時代の経過とともにしだいに皇位は特定一族のものとなっていった。これは他の本にも書いてあることで、天皇家の万世一系が具体的に公式記録に残るのは、この乙己の変あたりからであろう。蘇我氏の悲惨な最期を見た藤原氏は、この出来事を一族の繁栄の教訓としたのでないだろうか(主役となるとあぶない、黒子に徹すること)。蘇我馬子は姪額田部皇女(推古)と助け合って政治を行ってきた。崇峻天皇は蘇我馬子の推薦で天皇になったが、任那問題ではいわゆる征韓論者だったので、彼らに邪魔にされ殺されてしまった。舒明天皇が推古天皇の遺言と蘇我蝦夷らの援助で即位。舒明天皇の皇后がのちに皇極天皇となる。このときまでは蘇我氏の権力は最高であったのだが。皇極天皇が山背大兄一族の殺害と斑鳩の殲滅を決断した。その特命が入鹿の手に委ねられたのは当然であった(これは著者の説である)。 645(皇極四)年6月12日、入鹿は飛鳥板蓋宮で行われる「三韓進調」の儀式に参列して暗殺された。「三韓進調」とは、朝鮮三国(高句麗・百済・新羅)がそろって倭国の大王に対して貢ぎ物を献ずる儀式である。この儀式において古人大兄皇子が皇極天皇の傍らに侍したことは、外国使節の前で次期大王として披露する場であった。 次期大王を決定する権利は大王である皇極が握っていた。古人大兄の即位を否定し、王都建設に果たす入鹿の主導的な役割も取り消しにするという決定ができるのは、皇極天皇だけだったことになる。ところが、皇極天皇は、突然の暴力によって古人大兄が王位継承資格を失い、没落していくのを見て見ぬふりをした。少なくとも皇極は、古人大兄をそのように追い込んだ勢力の罪を積極的に問おうとしなかった。結果的に見て、皇極天皇が古人大兄と入鹿を裏切ったとしか考えられない。軽皇子(孝徳天皇)が事前に、実の姉である皇極天皇に執拗に働きかけ、翻意をうながしたことを想定しないと、古人大兄と入鹿が一挙に既得権を失うというどんでん返しは到底起こらなかった。 つまり、皇極天皇・孝徳天皇という姉弟が共謀して、態度が大きくなった入鹿を嫌い、入鹿の息のかかった古人大兄を権力から遠ざけたのであろう(というのが著者の説である)。はたして蘇我氏は野望があったのか、なかったのか。天皇にはならなくても、次期天皇を自分の思うまま選べた存在では皇族たちに疎まれたかもしれない。この本も練馬区の図書館で読んだので、一部メモ書きを見ながら整理しました。少し間違いがあるかもしれない。
男爵はん。まいど。> 韓国人から見た北朝鮮 独裁国家のル-ツ(PHP新書 2003年) > > 著者の呉 善花(オ・ソンファ)は韓国で半日教育を受けて日本に来たが> しだいに知日派となり、いまは日本に帰化して拓殖大学国際学部教授です。 こんなん、「亡命韓国人から見た、北朝鮮 独裁国家のル-ツ」とちゃいまっか。 帰化いうたら、聞こえええけど、韓国から、縄文人の作った国へ亡命してきたん、ちゃう? > この本の目次にしたがって、主なポイントだけ紹介します。> ○北朝鮮に恐怖をいだかなくなった韓国> もはや北朝鮮はとるにたらない、韓国優位と判断した。> 日本人拉致問題は他人事。> ○専制独裁主義のルーツは李朝にあり> 中国の歴史教科書には皇帝支配政治は終わったと書かれているが、北朝鮮には李王朝の伝統が残る?> ○チュチェ思想のルーツは儒教だった。> 儒教の社会主義版である。> ○小中華思想と日本を見下す侮日観> 倭人と呼んだ朝鮮通信使> ○大国への屈折> 事大主義の伝統、やはり中国は偉い?> ○自民族優越主義という害毒> うぬぼれはどの民族も持っているものだが。> ○父系血縁制と身分制> 国民を愚かにする理念主義とハングル専用政策> > ーーーーーーーーーーーー> ハングル文字は日本の「かな」に相当するので、利点と欠点がある。> 韓国からの留学生を見ていると、自分の名前を漢字で書けない。> そのうち昔の文書も読めなくなって、歴史を失うことになるのではないかと> よけいな心配をする。> > いっぽうの中国では、「かな」がないから、外来語も外国の固有名詞もみな漢字の音訳をしている。> > そういう点では、漢字とかなの両方を使う日本語が、過去現在将来を見据えた便利な表記だと思う。 1000年、前から、そうでっせ。横書きしたら、Englishでも、Spanishでもいけまっせ。 「ええご」「すぺいんご」と訓読でもやれまんがな。 Toshichan in Kyouto-fu
みなさん、今日は今日は何の日、5月6日ゴムの日「ゴ(5)ム(6)」の語呂合せ。ゴム製品のPRの為に制定。コロッケの日コロッケなどの冷凍食品を製造する株式会社「味のちぬや」が制定。「こ(5)ろ(6)っけ」の語呂合せ。1889(明治22)年 パリ万国博覧会開幕。321mのエッフェル塔が公開される 1937(昭和12)年ニューヨーク空港でドイツの飛行船ヒンデンブルク号が落雷により爆発1973(昭和48)年 NHK杯でハイセイコーが優勝し10連覇を達成 1994(平成6)年 英仏海峡トンネル(ユーロトンネル)の開通式 1998(平成10)年 車のナンバーが自由に選べる制度が発足 今日の誕生日の花:シャクナゲ花言葉:威厳今日の一句:石楠花や朝の大気は高嶺より 渡辺水巴 出典は今日は何の日、毎日が記念日http://nnh.to/及びNHKラジオ深夜便から引用しています。
またヴィデオを観てしまった。ルネ・クレールは大学生の頃、すきで『巴里祭』『巴里の屋根の下』『自由を我等に』『悪魔の美しさ』などいろいろ観た記憶があるが、この「最後の億万長者」は観ていなかった。 粗筋を書くと、地球上のどこかにモナコに似たカジナリオという国があり、そこはカジノで食っている小さなモナコによく似た国だが、最近のアメリカのように経済が破綻し、何とかこれを立て直そうと知恵を絞る。女王と首相は、たまたまこの国の出身で、海外で大成功を収めたバンコ氏★に眼をつけ、わかい孫娘のイサベルと結婚させて国家の危機を乗り切ろうと図る。 バンコ氏は新しい政策をつぎつぎ打ち出すが、奇妙なものが多い。一方、孫娘は年齢の離れたバンコ氏を嫌い、宮廷楽団の楽長と懇ろになってしまう。 その後いろいろ曲折があって、いよいよ結婚というとき、若い二人はひそかに出奔。その寸前でなんとか阻止しようとしたが、数年前にすでに事実上の結婚をしており子供まで二人あった。そこで女王は一大決心をし、自分が国家の犠牲になってバンコ氏との結婚をして事態の打開を図ろうとするが、その矢先に、今度はバンコ氏の銀行が破産したというニュースが入ってくる。 どこの国の財政再建も、なかなかうまくいかないようで…。(-_-;)結婚と引き換えに3億の金をカジナリオに入れるという文書に署名をする段になったときも、その署名用のインクにさえ事欠くありさま。 とくに面白かったのは、国民に金がなく、レストランの払いもびた一文持たぬ客が貨幣の代わりに、生きたニワトリを出して済ませることに。一方店主の方も、お釣がないので奥からニワトリのヒナを一羽とタマゴ一個を持ってきて、客の前に差し出す。客はその内から、タマゴ一個をチップとして置き、その店を立ち去るという監督の芸の細かさにも脱帽。 ところで、楽しかった連休も、これでおしまい。さあ、あすから気を引き締めて懸命にハタラコウ。←誰が? ★バンコは銀行の意味。
練馬区の光が丘公園でのモンゴル春祭を見に来たついでに今年もまた近くの練馬区立図書館で本を数冊読んできました。韓国人から見た北朝鮮 独裁国家のル-ツ(PHP新書 2003年) 著者の呉 善花(オ・ソンファ)は韓国で半日教育を受けて日本に来たがしだいに知日派となり、いまは日本に帰化して拓殖大学国際学部教授です。この本の目次にしたがって、主なポイントだけ紹介します。○北朝鮮に恐怖をいだかなくなった韓国 もはや北朝鮮はとるにたらない、韓国優位と判断した。 日本人拉致問題は他人事。○専制独裁主義のルーツは李朝にあり 中国の歴史教科書には皇帝支配政治は終わったと書かれているが、北朝鮮には李王朝の伝統が残る?○チュチェ思想のルーツは儒教だった。 儒教の社会主義版である。○小中華思想と日本を見下す侮日観 倭人と呼んだ朝鮮通信使○大国への屈折 事大主義の伝統、やはり中国は偉い?○自民族優越主義という害毒 うぬぼれはどの民族も持っているものだが。○父系血縁制と身分制 国民を愚かにする理念主義とハングル専用政策ーーーーーーーーーーーーハングル文字は日本の「かな」に相当するので、利点と欠点がある。韓国からの留学生を見ていると、自分の名前を漢字で書けない。そのうち昔の文書も読めなくなって、歴史を失うことになるのではないかとよけいな心配をする。いっぽうの中国では、「かな」がないから、外来語も外国の固有名詞もみな漢字の音訳をしている。そういう点では、漢字とかなの両方を使う日本語が、過去現在将来を見据えた便利な表記だと思う。
みなさん、今日は今日は何の日、5月5日今日は立夏です。こどもの日(Children's Day)こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する国民の祝日。1948(昭和23)年7月公布・施行の祝日法によって制定された。児童憲章制定記念日1951(昭和26)年、子供の権利に関する宣言「児童憲章」が制定された。ボーイズデー1946(昭和21)年〜1948(昭和23)年。この日が男の子の節句であることから。1949(昭和24)年からは「こどもの日」に引き継がれた。端午の節句,菖蒲の節句邪気を払う為、菖蒲や蓬を軒に挿し、粽や柏餅を食べる。「端」は物のはし、つまり「始り」という意味で、「午」は「五」に通じることから、元々「端午」は月の始めのの五の日のことだった。その中でも数字が重なる5月5日を「端午の節句」と呼ぶようになった。日本ではこの日、男性は戸外に出払い、女性だけが家の中に閉じ蘢って田植えの前に身を清める神聖な儀式の日だった。しかし、「菖蒲」が「尚武」と同じ読みであることから、鎌倉時代ごろから男の子の節句とされ、甲胄・武者人形等を飾り、庭前に鯉のぼりを立てて男の子の成長を祝うようになった。オモチャの日東京玩具人形問屋協同組合が制定。端午の節句に因み、おもちゃや人形のPRの為に設けられた。わかめの日日本わかめ協会が1983(昭和58)年に制定。「こどもの日」に因み、子供の成長、発育に欠かせないミネラル、カルシウム等を含んだわかめをたくさん食べてもらおうと設けられた。また、この頃は新わかめの収穫時期でもある。1891(明治24)年 ニューヨークにカーネギーホールが開場 1947(昭和22)年 国鉄が中央線の列車に婦人・子供専用車を連結 1955(昭和30)年「パリ条約」が発効し西ドイツの主権が恢復。翌日NATOに加盟今日の誕生日の花:ショウブ花言葉:心意気今日の一句:子供の日小さくなりし靴幾つ 林翔出典は今日は何の日、毎日が記念日http://nnh.to/及びNHKラジオ深夜便から引用しています。
練馬区の光が丘公園でのモンゴル春祭を見に来ました。http://www25.big.or.jp/~mllwclb/cgi-bin/bbs/danwasitu/wforum.cgi?no=30582&reno=30581&oya=30580&mode=msgview> > 私はこの機会にまた> > 近くの練馬区立図書館で本を数冊読んできました。> > 大活字本 鬼平犯科帳 23 1> > 大活字本 鬼平犯科帳 23 2 > > 大活字本 鬼平犯科帳 23 3> > これらの本は2010年1月発行なので、昨年は私は読んでいないはずです。 鬼平鬼平犯科帳 23 1巻 隠し子 2巻ー3巻 炎の色炎の色は 夜鴉の声 囮 荒神のお夏 おまさとお園(前編) おまさとお園(後編) 盗みの季節 押し込みの夜などの小説から構成されています。 まず、お園は鬼平の父の隠し子だということを告げられた鬼平はそれではお園は自分の腹違いの妹だと理解します。それで、それとなくお園に気をつけ、彼女を危機から救います。 密偵おまさは、昔の仲間から押し込みの手伝いを誘われ驚きながらも、おまさは鬼平と密かに連絡をとり、お園の新連絡係や鬼平チームの活躍でめでたしめでたしということになるのです。 同心小柳安五郎は妻子を亡くして寂しかったのですが、お園と知り合って、鬼平の了承もえてお園と結ばれます。鬼平熱愛倶楽部の聡庵さんも、「部下に持つ なら、小柳安五郎と澤田小平次のどちら」と言ったとか。
みなさん、今日は今日は何の日、5月4日みどりの日(Greenery Day)自然に親しむとともにその恩恵に感謝し、豊かな心をはぐくむ国民の祝日。元々は昭和天皇の誕生日である4月29日で、昭和天皇が生物学者であり自然を愛したことから1989(平成元)年より「みどりの日」という祝日とされた。2007(平成19)年より4月29日は「昭和の日」となり、みどりの日は5月4日に移動された。ラムネの日1872(明治5)年、東京の実業家・千葉勝五郎が、ラムネの製造販売の許可を取得した。中国人のレモン水製造技師を雇い製造法を学んだ。競艇の日下関競艇場が、競艇場のイメージアップと、競艇ファンの拡大を狙って制定。ファミリーの日中華料理店チェーンの東天紅が、1985(昭和60)年にこの日が休日になると決定した時、それにふさわしい愛称を公募し制定。それまで家族全体の記念日がなかったことから。エメラルドの日コロンビアエメラルド輸入協会が2000(平成12)年に制定。「みどりの日」に因み、緑色の宝石エメラルドをPRする日。当初は4月29日であったが、2007(平成19)年、「みどりの日」が5月4日になるのにあわせて5月4日に変更された。エメラルドは5月の誕生石でもある。ノストラダムスの日1555年、フランスの占星術師・ノストラダムスが『百篇詩集(諸世紀)』を出版した。1919(大正8)年5.4運動。第一次大戦後の山東半島権益問題で北京大学の学生が天安門広場に集結し反日行動。全国に拡大1974(昭和49)年 日本人女性登山隊がマナスルの登頂に成功。8000m級の高山の登頂は女性初 1974(昭和49)年 堀江謙一が小型ヨット「マーメイド3世号」での単独無寄港世界一周を終え大阪に帰港。世界で3人目 1979(昭和54)年 イギリスで保守党のマーガレット・サッチャーが首相に就任 今日の誕生日の花:ハナミズキ花言葉:公平にする今日の一句:曇天にささやきそめし花水木 中本森八 出典は今日は何の日、毎日が記念日http://nnh.to/及びNHKラジオ深夜便から引用しています。
あっしは昔から涙もろいので、お涙頂戴式の映画は一切みないことにしていたが、折角の大連休。きょうは珍しく居間で、こないだ買って来たばかりのDVDを観ることにきめた。 題は「息子の部屋」。監督はナンニ・モレッティである。主役をはじめ製作、原案、脚本のいずれにも彼の名が出て来る。 ジョヴァンニは、妻と子供ふたりのごく普通のイタリアの家庭で、精神分析医の仕事をしている。仕事場にしている自宅には患者も多く、仕事は一見うまくいっていて、はたからは仕合せそうな家族に見える。 ある日、愛する長男が学校の友だちと海へ出かけ、潜水中に事故に遇い、病院に収容されたが、薬石効なく、家族と言葉をかわすことなくついにそこで息を引き取った。最愛の息子と再び会える楽しみは完全に絶たれた。ジョヴァンニは最初の内は冷静に診療に打ち込んでいたが、その悲しみは、いつまでも彼の身の周りにしつこく付きまといいつかな離れようとはしなかった。ほかのことに気を紛らせようとする努力もすべて水泡に帰した。さしも冷静だった精神分析医も、ついには冷静さを失い、いつしか家で荒れる日も増えてきた。 そうした悲しい日々が幾日か続いたが、そうこうする内、外出先から帰宅した妻のパオラは自宅の郵便受けに、アリアンナという未知の少女からの手紙を発見する。そこにはアンドレーアの部屋が見たいとも書いてあった。この子のことは家族は誰ひとり知らないことだったが、彼女は実は息子アンドレーアの女友だちだったのだ。パオラの留守中、ジョヴァンニはそのアリアンナの訪問を受ける。 彼女は実はいま男友達のステーファノと一緒にフランスを目指し、ヒッチハイクの途中だと告げる。そのステーファノも良さそうな子で、ジョヴァンニ夫妻もほっとひと安心する。はじめは、連中をちょっとそこまで送るつもりだったが、同乗のお客は歩き疲れたのか、車の後部座席で仲良く眠りこんでしまう。 ジョヴァンニはかれらを起こすのが可哀想だとそのまま運転を続け、いつの間にかフランス国境に着いてしまう。娘のイレーネはバスケの選手で、きょうの試合に間に合わないと大慌て。連中との名残りは惜しいが、ジョヴァンニ一家はここで若いふたりに別れを告げることになる。 これで何もかもすっかり解決したと云うわけではないが、アリアンナに出会ったことで、一家のアンドレーアの死による喪失感や深い苦しみは、幾分か和らいで来たような感じだ。 あっしは、これを観終わって、久しぶりに快い涙をながし、別れと再生を体験することができた。 バックに流れるスローテンポの、ブライアン・イーノのテーマ曲「バイ・ディス・リバー」も、こころの痛みを優しく洗い流してくれる、美しい曲だ。 同上の映画は、2001年度カンヌ映画祭パルム・ドール賞を受賞している。
副題は 敦厚から斑鳩へ古代の壁画などに注目して、立体的見取り図や透視図などの数学原理を探る。幾何画法の歴史ともいえる。ここで扱われているのは、シルクロードの壁画が主であるが中国や日本の寺院に描かれた絵画にも及んでいる。それはともかく東洋に西洋科学や数学を紹介したのがマテオ・リッチ(Matteo Ricci, 1552年10月6日 - 1610年5月11日)イタリア人イエズス会員・カトリック教会の司祭。中国名は利瑪竇(り まとう、Lì Mǎdòu)。ユークリッド幾何学の漢文訳である「幾何原本」(1607年)などを刊行、訳したのは徐光啓である。「幾何原本」は吉宗のときに日本にも輸入解禁となる。当時の日本は、こうして中国を介して日本に入ってきた西洋科学もある。