KAMEさん、みなさん、こんにちは。> 歩道橋の日> 1963(昭和38)年、大阪駅前に日本初の横断歩道橋が完成した。歩道橋ってそんなに昔からあったんですか。たしかに道を渡るより安全ですよね。でも・・・疲れるなあ。あの階段、けっこうたくさんありますもん。歩道橋はしんどいから下渡っちゃお、って人もけっこういて、それが事故になる、ということを聞いたことがあります。エスカレーターならいいのになあ。そういえば、こちらでは歩道橋は見たことありません。横断歩道ばっかりです。車の人ものんびりしてて、お年寄りがゆ〜っくり渡ってても気長に待ってます。
みなさん、今日は今日は何の日、4月25日国連記念日1945(昭和20)年、サンフランシスコで連合国50か国代表による会議が開催され、国連憲章が採択された。拾得物の日1980(昭和55)年、東京・銀座で大貫久男さんが現金1億円を拾った。落し主は現れず、1億円は全額大貫さんの手に渡った。歩道橋の日1963(昭和38)年、大阪駅前に日本初の横断歩道橋が完成した。ギロチンの日1792年、フランスでギロチンが実用化された。当時はフランス革命後の恐怖政治により、毎日何百人もの人が処刑されていた。そこで、内科医で国民議会議員だったジョゼフ・ギヨタンが、受刑者に無駄な苦痛を与えず、しかも全ての身分が同じ方法でできるような「単なる機械装置の作用」により行うよう議会で提言し、その案が採択された。外科医のアントワヌ・ルイが設計の依頼を受けて、各地の断頭台を研究し、刃を斜めにする等の改良を加えた。このため当初は、ルイの名前をとって「ルイゼット(Louisette)」とか「ルイゾン(Louison)」と呼ばれていたが、この装置の人間性と平等性を大いに喧伝したギヨタンの方が有名になり、ギヨタンから名前をとった「ギヨチーヌ(Guillotine)」(ドイツ語読みで「ギロチン」)という呼び名が定着した。フランスでは1981年9月に死刑が廃止され、それとともにギロチンの使用もなくなった。1945(昭和20)年 エルベの誓い。第二次大戦で東西からドイツに進撃した米ソ両軍兵士がエルベ川で出会い世界平和を誓う 1982(昭和57)年 イスラエルが15年間占領していたシナイ半島が、エジプトに全面返還 2005(平成17)年 尼崎市の福知山線(JR宝塚線)で列車が脱線。死者107人今日の誕生日の花:ライラック花言葉:思い出を大切に今日の一句:リラ咲けば誰も旅人港町 古賀まり子出典は今日は何の日、毎日が記念日http://nnh.to/及びNHKラジオ深夜便から引用しています。
ご存じアガサ・クリスティーの推理小説。作者にとってエジプトとかナイル川は良い思い出の地らしい。この推理小説にヒントを得て坂口安吾は有名な作品を書いた。その坂口安吾の推理小説は、同時にABC殺人事件の影響も受けている。殺された女性に対して、作者は好意を持っていないように思われる。美人で金持ちではあるが人間的に問題がある人物。それは成り上がりアメリカ人に対する作者の無意識下の批判であろうか。ヨーロッパ人が世界の指導的立場にいるアメリカを単純に尊敬しないでかげでアメリカには歴史がないとかアメリカ人の底の浅さを言うのとどこかで通じているような気がする。、さすがのポアロも今回は依頼は受けても引き受けない。ただ人間として見ていられないときは、できるだけのことはすると約束するが殺人事件は起きてしまった。推理小説に具体的な解説は禁物なので、これ以上は書きません。「ナイルに死す」は「ナイル殺人事件」としてしばらく本が出ていたが、私が読んだこの本は「ナイルに死す」(2008)でした。
みなさん、今日は今日は何の日、4月24日植物学の日1862(文久2)年、植物分類学者の牧野富太郎が高知県佐川町の豪商の家に生まれた。94歳でこの世を去るまでの生涯を植物研究に費やして、新種・変種約2500種を発見・命名し、「植物学の父」と呼ばれた。日本ダービー記念日1932(昭和7)年、目黒競馬場で日本初のダービー(東京優駿競争)が開催された。イギリスのダービーステークスに傚って企画された。出走は19頭で、優勝したのは1番人気のワカタカだった。ダービーは元々、第12代ダービー卿が始めた、ロンドン郊外で開催されるサラブレット3歳馬ナンバーワンを決めるレースの事で、イギリス競馬界最高の行事だった。後に、日本を始め世界各国でそれに傚った「ダービー」という名前を附けたレースが開催されるようになった。1940(昭和15)年 米・味噌・醤油・砂糖など生活必需品10品目を配給切符制にすると発表 1951(昭和26)年 桜木町事件。国鉄京浜東北線・桜木町駅で、切れた架線に電車のパンタグラフがからまって発火、前2輛が全焼。死者106人 1990(平成2)年 アメリカでスペースシャトル「ディスカバリー」打上げ。軌道上でハッブル宇宙望遠鏡を放出 今日の誕生日の花:ワスレナグサ花言葉:勝利の誓い今日の一句:この花に勿忘草といふ名あり 清崎敏郎出典は今日は何の日、毎日が記念日http://nnh.to/及びNHKラジオ深夜便から引用しています。
退職したお父さんふと思いついて、朝食を自分で作ってみた。トースト、野菜、ハムエッグたまには茶粥も(ほうじ茶の粉茶を茶袋にいれ熱湯の釜に入れ、煮だったらお米を入れ、やわらかくなったら食べる)こうして自分で作るようになると冷蔵庫の中身が気になりだした。冷蔵庫はいつもいっぱい。以前に買ったもの、食べ残したもの、新しく買ったもの奥から順に手前まで置かれている。このことを奥さんに言うと機嫌が悪くなる。(そりゃ当然)「男は台所のことに口を出さないでちょうだい」毎日買い物にでかける奥さん「買い物は私の楽しみなの」たまには買い物に行きたいお父さん今のところ、食事の後片づけをするようになった。大谷健:定年族の時間割、主婦の友社
みなさん、今日は今日は何の日、4月23日サンジョルディの日,世界本の日日本書店組合連合会、日本カタロニア友好親善協会等が1986(昭和61)年に制定。スペイン・カタロニア地方には、この日、守護聖人サン・ジョルディを祭り、女性は男性に本を、男性は女性に赤いバラを贈る風習がある。この日は「ドン・キホーテ」の作者セルバンテスの命日でもあるため、スペインでは「本の日」とされている。日本でもこの風習を定着させようと制定された。世界図書・著作権デー(World Book and Copyright Day)国際デーの一つ。こども読書の日2001(平成13)年12月に制定。文部科学省が実施。こどもの読書活動についての関心と理解を深め、こどもが積極的に読書活動を行う意慾を高めることを目的としている。地ビールの日日本地ビール協会を中心とする「地ビールの日選考委員会」が1999(平成11)年に制定、2000(平成12)年から実施。日附は公募により選定された。1516年、バイエルン国王ウィルヘルム4世が発布した「ビール純粋令」により、水、ホップ、大麦・小麦の麦芽、酵母だけがビールの醸造に使用できることとなって、「ビールとは何か」が世界で初めて明確に定義された。また、この日はドイツの「ビールの日」にもなっている。1949(昭和24)年 GHQが日本円に対する公式レートを1ドル=360円に設定。25日から実施 1974(昭和49)年 旧赤坂離宮の迎賓館への改造工事が終わり落成 1975(昭和50)年 フォード米大統領がベトナム戦争の終結を宣言 1993(平成5)年 天皇・皇后両陛下が歴代天皇で初めて沖縄を訪問。全国植樹祭出席のため 今日の誕生日の花:オダマキ花言葉:勝利の誓い今日の一句:苧環や木曽路は水の音の中 蟇目良雨出典は今日は何の日、毎日が記念日http://nnh.to/及びNHKラジオ深夜便から引用しています。
みなさん、今日は今日は何の日、4月22日アースデー(地球の日)アースデー世界協議会等が主催。1970(昭和45)年、アメリカの市民運動指導者で、当時大学生だったデニス・ヘイズが提唱。地球全体の環境をまもる為、ひとりひとりが行動を起こす日。1970(昭和45)年から1990(平成2)年までは10年に1度実施されていたが、1991(平成3)年からは毎年開催されている。よい夫婦の日講談社が制定。「よい(4)ふうふ(22)」の語呂合せ。1925(大正14)年「治安維持法」公布。5月12日施行1930(昭和5)年「ロンドン海軍軍縮条約」に調印。補助艦の保有比を英米10:日本7に制限1946(昭和21)年 福岡の新聞「夕刊フクニチ」で長谷川町子の4コマ漫画『サザエさん』が連載開始 1950(昭和25)年 日本戦歿学生記念会(わだつみ会)が結成大会 今日の誕生日の花:ヤマツツジ花言葉:燃える思い今日の一句:しんかんと火の島燃ゆる山躑躅 水原春郎 出典は今日は何の日、毎日が記念日http://nnh.to/及びNHKラジオ深夜便から引用しています。
著者の石毛直道は日本の食文化のみならず世界の食文化の研究では第一人者アイスクリン 1860(万延元)念、幕府の遣米使節団は、冷たい美味なアイスクリンを食したことを記録している。 イタリアのルネサンス期に、クリームと牛乳を入れたシャーベットが考案され、これがフランスに伝えられアイスクリームができた。 19世紀半ばのアメリカでアイスクリームマシンが発明され、以後アメリカ国民に愛されるようになった。 尾崎紅葉の「金色夜叉」には高利貸を「アイス」と表現している。そのこころは、氷菓子=高利貸だから。包丁一本 包丁一本 晒にまいて 旅へ出るのも.... おなじみ「月の法善寺横町」の主人公はどんな包丁をもって旅に出たのか。 著者はなじみの居酒屋の主人に聞いたら、普通は3本の包丁が必要という。 柳刃(刺身包丁)、出刃、薄刃(菜切り包丁)が必要なのだが、無理に一本だけ選ぶとしたら、柳刃包丁だということであった。馬乳酒 古代ギリシアの歴史家ヘロドトスは、騎馬遊牧民族スキタイ人が、馬の乳から酒をつくることを記録している。 現在でも、カスピ海からモンゴルにつながる一連の騎馬遊牧民族の分布地帯では、乳酒がつくられる。 馬乳酒が有名であるが、牛、羊などの乳からも、アルコール分を含む飲料がつくられる。 馬乳酒のアルコール分は2パーセント程度であるが、これが飲みたくてキルギスまで行ったようなもの。 来月にはモンゴル祭りで馬乳酒を飲んできます。この著者は学生時代から怪我がつきなく、研究のおりおりの打ち上げに、二次会、三次会を繰り返すうちに足元がふらつき骨折をくりかえしたという。この本ではじめて知りました。お酒を飲むときは注意しましょう。
みなさん、今日は今日は何の日、4月21日民放の日日本民間放送連盟(民放連)が1968(昭和43)年に「放送広告の日」として制定。1993(平成3)年に「民放の日」に改称した。1951(昭和26)年のこの日、日本で初めて民放16社に放送の予備免許が与えられ、翌1952(昭和27)年のこの日に民放連が発足した。1924(大正3)年都下15新聞社がアメリカの排日移民法案に反対する共同宣言を発表1934(昭和9)年 渋谷駅前の忠犬ハチ公像が完成し除幕式 1954(昭和29)年 造船疑獄で第五次吉田内閣の犬養健法相が指揮権を発動し、佐藤榮作の逮捕請求不承認を検事総長に指示。翌日法相は辞任 今日の誕生日の花:サクラソウ花言葉:少年時代の希望、青春今日の一句:咲き満ちて庭盛り上る桜草 山口青邨出典は今日は何の日、毎日が記念日http://nnh.to/及びNHKラジオ深夜便から引用しています。
木内信敬著 筑摩書房ジプシーの語源は彼らはエジプトから来たということで、英語ではイージプシャンと呼ばれていたがやがて、先頭のイーがとれて語尾もなまって、ジプシーとなった。ドイツではツィゴイネルと呼ばれ、フランスではジタンと呼ばれ、ヨーロッパにはボヘミア地方から流れてきたということでボヘミアンとも呼ばれた。しかし、ジプシー自身は自分のことをロム(複数はロマ)(人間という意味)と呼んでいる。彼らの使う言葉はロマニー語であるが、ロマニー語には文字がない。その後研究が進むにつれ、彼らはインド出身ということになった。ドイツの言語学者グレルマンが、ジプシーのロマニー語はインドの古い言語のサンスクリット語のある時期のかたちによく似ていることを指摘した。つまり、ジプシーの言葉ロマニー語は、インド・ヨーロッパ語の一種なので、ジプシーがヨーロッパの言語をすぐ覚えるという語学の天才と言われるのは、インド・ヨーロッパ語という同じ言語圏にあるからであろう。彼らは文献によれば15世紀にはじめて西ヨーロッパに現れた。旅をしながら流浪の生活をする集団であった。主だったものが馬に乗り、残りは徒歩で、テントや荷物を担いで移動した。現代のジプシーはトラックやキャンピング・カーで移動するという。適当な野営地を見つけてしばしそこで暮らすのであったが、世界が国とか国境の意識が強くなってくると、(土地の不法利用だから)彼らもその国の支配を強く受けるようになり、定住するジプシーも増えてきた。彼らの伝統的な仕事は 馬の飼育と売買 季節的な農作業の手伝い イカケ、鍛冶の仕事 カゴづくり、薬草の採集 占い 音楽、踊り、見世物などがある。----------------------この本の統計では、ユーゴスラビアに最大のジプシー人口があることになっているが(1975年)現在はどうなったであろうか。次にジプシー人口の多いのはルーマニア、スペイン、ハンガリーである。ジプシーが自分たちをロマ(人間)と呼んでいるのはアイヌという言葉は人間という意味で、アイヌ人たち自分たちをアイヌ(人間)と呼び、倭人をシャモと呼んでいたようにどの民族も自分たちは人間で、他民族とは区別していたようである。カルメンもジプシーであったように、ヨーロッパ人のジプシーに対する見方は、音楽好き(フラメンコの上手な踊り手はほとんどジプシー)、占いに秀でている、野生的で時には無法的、女は誘惑的というやや固定観念にとらわれたものである。だが、フランスではジプシーの子供に被害を受ける日本人旅行者があとをたたないように、要注意の集団であることは確かだ。柳田国男は朝鮮半島からわたってきた傀儡子(くぐつし)集団が芸能や占いなどの生業をして全国を移動していたことを注目してジプシーとの相似性を指摘している。この傀儡子集団の芸から、阿国歌舞伎ができたり、川原乞食と呼ばれる芝居芸人集団ができたり、恐山のイタコや朝鮮に残るムーダンが今に残っている。 旅芸人としての伊豆の踊り子もやはり、蔑視されていたのであろう。あの小説に、旅芸人は村に入ることを禁ずるという立て札のことが書かれてあった記憶がある。