このほど、例のアフリカの人気伝統楽器、ブブゼラによる患者第一号が誕生した模様。このお嬢さん、ケープタウンの街路でのブブゼラのど自慢大会に出場。 むちゅうで愛器を演奏中、のどもとに痛みを感じた。でも、こんなところで引っ込んだら賞品はきっと誰かの手に渡ってしまう。この素敵な賞品、ひとに渡してなるものかと、さらに猛烈に吹きまくったところ、ついにのどが破れ病院へ急行。 それを診察した先生、患者を前にして笑いが止まらない。ハッハッハッハッハ。バカにしてるわ、と思わず患者のイヴォンヌちゃん、柳眉を逆立てると、「っはっはっは、しかしキミ、はっは、キミはなんといっても世界初の、ブブゼラ病患者第1号だからね。たいした紋さ。っはっはっは〜∞」(-_-;) このプラスチック製楽器、ほとんどが中国製。ガッポリ儲けたのははたして注紋主の南アのほうか、それとも楽器を輸出した中国の方か。←それにしても、日本では一度か二度は記事になったけどそれからはブブゼラのこと、あまり新聞なんかに出ませんね。
『マルチメディア館』のほうへ男爵さんが東北出身の佐藤紅緑のむすこ、サトーハチロー(記念館は岩手県北上)のことを書いておられました。あそこは写真の部屋ですので、こちらへ関連記事を書きます。 テレビをみると「ゲゲゲの女房」、こんどは書店へ行くと「妖怪コーナー」。さまざまな妖怪が客を待ち受けている。これはいま正に、民俗ブームの始まりなのではあるまいか。(^_-)-☆ ところで、遠野を有名にした人に柳田國男があります。かれには膨大な著書がありますがまともに読んだものはありません。(-_-;)中学のときクラスに松岡某と云う男がおり、かれはつねに、日本画家松岡映丘(輝夫)の親戚だといっては自慢していました。映丘は國男(養子に行く前の旧姓は松岡)の兄弟の一人です。 最寄の駅で歴博のパンフレットコーナーを覗くと「遠野の観光と昔話」のパンフレットがおいてあった。これは、第10回歴博映画の会の宣伝で当日は『観光と民俗文化 遠野民俗誌 94/95』と『民族文化の自己表現』に2作品が上映されるもの。両方観るとサッカーではないが、ちょうど1時間半かかります。 入場は無料で、申し込みも不要。8月7日土の14時半から16時半まで。(作品の解説30分を含む)先着260名のみ受け入れ。 途中まで読みかけて止めた、柳田の「遠野物語」も、そのうち一度暇を見つけて読んでみたいと思っている。なにしろ、あっしの中学時代、柳田の生まれた福崎町(兵庫県)から汽車通学するものも、クラスメートの中にはケッコウ多かったし…。(^_-)-☆
> みなさん、今日は> 今日は何の日、6月19日> 理化学研究所創設の日> 1917(大正6)年、理化学研究所(理研)が、わが国で初めての基礎および応用研究を行う機関として、東京都文京区本駒込に設立された。> 1958(昭和33)年に「理化学研究所法」にもとづく特殊法人になり、1957年から1966年の10年間かけて、現在の埼玉県和光市に移転した。 仕分けの対象となった、研究も多いようで、何を研究しているのか、分かれへんね。 商売のために、何回か行きましたけど、おっとりしてるという、印象でした。 お国に予算が多かった時は、良いお客さんだったのかも。今は人件費に喰われてる?? Toshichan in Kyouto-fu
最新ニュース。1998年のノーベル賞受賞作家、ポルトガルのジョゼ・サラマゴが18日、スペインのランザローテ島(カナリア諸島)の自宅★で死亡した、と。スペインの出版社から発表があった。享年87歳。 昨今は病院を出たり入ったりの繰り返しであったらしい。★93年から夫人とともに定住。 思えば、あっしは2007年の6月、文集の部屋に「6月10日は」と云う題でサラマゴのことを書いていました。(#1485)
時間を計る技術がすすんだ現代は、まさに時間に追われる生活。 こんなに日本が時間に几帳面になったのは明治になって鉄道の列車が正確に運行するようになってからという。昔はのんびりしていた。今よりゆとりがあったかもしれない。今でも都会では時間がどんどん進むが、田舎では時間はゆっくり進むと考える人もいる。 ーーーーーーーーーーーー 阿部謹也:自分のなかに歴史をよむ 筑摩書房私にとっては、何度も読む必要のある本、意義を感じている本です。(A)意識や存在も歴史の中にあるゲッチンゲン大学のヘルマン・ハインペル教授の論文「人間とその現在」現在の基準を、今日という日におけば昨日はもう過去となる。基準を今年におけば昨年が過去となる。現在という基準はきわめて相対的なもの。歴史の研究は現在からはじまらないといけない。現在がどこまでさかのぼるかがはっきりしていなければ過去との関係もはっきりしないから。現在や現代ということばに絶対的な基準がない。中世、古代という過去についての時代区分はもっとあやふやである。日本の歴史家には、歴史というものを自分の外に流れてゆく時間や物事、そして社会の動きとしてとらえようとする傾向があって、自分の意識や存在そのものが歴史のなかにあるということをきちんと把握して、分析した人は非常に少ないと思われる。ハインペルは、自分の意識や外の世界を見たり、分析したりするときの目が、はたしてすべて現在の目であり、意識であるといえるのだろうかという、非常に本質的なところから問題を出している。フィリピンの人びとにとって、アキノ政権が生まれてからが現在であろう。ソ連においては、かつては1917年の革命が現在のはじまりととらえられていたが、今ではゴルバチョフ政権のペレストロイカを現在のはじまりとみる人も多いであろう。現在を規定しているのは過去だけではない。未来もまた現在を規定している。将来の計画をたてて現在の生活を営む人、受験勉強のために遊びをひかえ塾通いをする人、あるいはもっと大きな計画の準備をするために今日の生活をおくる人たちは、未来によって現在を規定している。(B)ハインペルの子どものときの体験ハインペルの自伝的書「小さなバイオリン」ハインペルの父はシーメンスの技師、大都会ミュンヒェンで暮らしていた。祖父母はボーデン湖畔のリンダウに住んでいた。幼いハインペルはリンダウを訪れたとき、リンダウではミュンヒェンとは時間が違うことに気づいた。時間は数量的にとらえれば万人に公平に流れてゆく。しかし、時間を人間がどのように意識しているかという点ではそうはならない。ハインペルは中世のたたずまいの残るリンダウで、リンダウの時間はミュンヒェンとは違うと思ったのではないか。中世の人びとにとっては現代とは違う時間だったのではないか。狩人は獲物をつかまえるか、逃げられたときが終わりの時間だった。5時だからやめよう、などという考え方は歯車時計が普及するまではなかった。時間が事柄をきめるというのではなく、事柄が時間の枠をきめていたのである。第1次大戦の敗北を聞いたとき、ハイペルは17歳だった。彼は祖国の敗戦に衝撃を受けた。そのとき、ミュンヒェンのオペラ座で「魔笛」が上演されていた。このこともハインペルは大変強い印象を受けた。祖国が破れたのにオペラ座では「魔笛」が上演され、立派な服を着た紳士淑女が観劇していた。ハインペルは共通の現在のなかに、さまざまな現在があることを感じとった。ハインペルの子どものときの体験が、後の学問に影響を与えたように(学問の意味づけとして)自覚的に生きるために2つの手続きが必要。1つは自分のなかを深く深く掘ってゆく作業である。どんな人もものごころついときから、自己形成がはじまっている。学問の第一歩は、ものごころついたころから現在までの自己形成の歩みを、たんねんに掘り起こしてゆくことにある。自分を歴史的に掘り起こす試みでもある。歴史研究の大事な手続きの第2は自分の内奥を掘り起こしながら、同時にそれを大いなる時間のなかに位置づけていくことにある。「もしある作品が完全に現在のなかに埋没し、その時代にしか生まれないものであって過去からのつながりも、過去との本質的な絆ももたないとしたら、その作品は未来に生きることはないだろう。現在にしか属さないすべての事物は現在とともに滅びる」(ミハイル・バフチーン)(C)機械時計の発明 機械時計の発明は人間社会を変えた。大聖堂時代に機械時計も発明された。時計は修道院のなかで祈祷時間を正確にはかるために用いられたが歯車を用いた機械時計の発明は、その後の人類全体を規定するほどの意味をもっていた。それまでの時計は、火時計(日時計)や水時計、砂時計などで自然のリズムに合致したものだった。中世の人びとにとって、正確な時間を知る必要はなかった。農民は夜が明けてから陽が沈むまでが仕事の時間だった。機械時計の発明により、自然のリズムとは違った客観的な時の計測が可能となった。それは商人の活動にとっては大きな意味をもっていた。客観的な時間の計測が可能になったので、利子の計算が正確にできるようになり、契約についても正確さが求められるようになった。(支払いの日にちだけでなく、制限時間までつけられた?)それまでの旅の日程や距離は、宿泊日数とか馬を何頭とりかえたか、といった事実ではかっていた。時計ができてから、ある町から別の町まで、歩いて何時間、馬で何時間という計算ができるようになった。機械時計の発明は、人間関係が客観的な基準によって計られてゆくきっかけとなり、均質的な時間や空間が生まれる出発点となった。
KAME(亀井)さん いつも有難うございます> 桜桃忌,太宰の日,太宰治生誕祭俳句の季語にもなり太宰は若い人にも人気があるそうですね(俳句歳時記 角川版より) 黒々とひとは雨具を桜桃忌 桂郎 太宰忌の夕日まるごと沈みゆく 明子高校生のころ「斜陽」や「人間失格」を読みましたが好きになれず、絶筆になった「グッドバイ」も朝日新聞に連載中見ていましたがまさかほんとうにグッドバイするとは気障な奴だ と思っていました女と3回も心中して(2回は未遂)男として風上にも置けぬ奴だ と軽蔑していました。ファンの方には申し訳ないことですが(~_~;) さんらく亭@甲子園
手塚治虫の漫画の主人公ブラックジャックは天才無免許医師で、法外な料金を要求するが様々な怪我や難病を治療してゆく。昨夜の講演の外科の医師はこのブラックジャックの漫画を盛んにほめていた。この外科医師は医大を退職してからも現役の外科医として働いている。学生時代に工学部の機械工学を学んだことがあり手術用具や手術の補助装置を考案することに意欲をもやしてきた。昨夜の講演会でも、自分のアイデアを具体化した試作品をいくつか会場に回覧していた。普通、外科手術はメスをもつ医師のほかに傷口をひらいたまま保持する役とか患部をわかりやすいように適宜処理する役とかがあってもし一人で手術をするとなると手術を容易にできるような道具や装置が必要になりそれは現代では、ひとつの理想であってなかなか実現しないのだがあのブラックジャックは一人で手術を行っているからすばらしい漫画なのだと評価していたわけです。傷口を縫い合わせるにしても作業するための姿勢の向きが決まっていて自由にはできないそうでそれをもっと自由にできるように器具の改良のアイデアも紹介していました。
ぷわらさん こんにちは> > 1908(明治41)年、本格的な海外移住の第一陣781人を乗せた笠戸丸が、ブラジルのサントス港に到着した。> > もう100年以上前のことなんですねえ。> どんな方が移民になっていかれたのでしょう?神戸に「海外移住と文化交流センター」という施設があります。昔は「国立移民収容所」という名前でした。渡航前の研修や事前の準備のための施設でした。2年前にはブラジル移民百周年で神戸市内で盛大なセレモニーが繰り広げられました。神戸は移民発祥の地なんです。ブラジル移民について石川達三が書いた『蒼氓』が第一回芥川賞を受けたことでも有名です。「どんな人が移民になったのか」という質問への答えとして簡単にまとめると以下のようなことです。ご参考になれば。「日本は1904年に日露戦争に勝ちながら賠償金を得られず経済は疲弊し農村の貧困が深刻になった。1907年に労働者不足にあえぐサンパウロ州政府との間に日本から3000人の移民を送り出すという協定を結んだ。ブラジル側は移民の定住のために家族単位での移民を求めた。それに応募した第一回の移民が781人でその多くは沖縄県出身者で神戸港から出港してサンパウロに到着したのが6月18日。その後第2回目には906人が移住した」移民の殆どは数年間契約労働者として働いてカネを貯めて帰国するつもりだったのが、現実は労働の苛酷さや悪条件のために叶わずたいへんな苦難を耐えてこられたのですね さんらく亭@甲子園
みなさん、今日は今日は何の日、6月19日理化学研究所創設の日1917(大正6)年、理化学研究所(理研)が、わが国で初めての基礎および応用研究を行う機関として、東京都文京区本駒込に設立された。1958(昭和33)年に「理化学研究所法」にもとづく特殊法人になり、1957年から1966年の10年間かけて、現在の埼玉県和光市に移転した。京都府開庁の日京都府が1985(昭和60)年に制定。1868(慶応4)年閏4月29日(新暦6月19日)、京都府が開設された。王政復古の4箇月後のことで、日本初の地方自治体だった。ベースボール記念日1846年、3アウト・3ストライク等現行のルールの基礎となるA.カートライト編集の野球規則による最初の野球の試合がニューヨークで行われた。元号の日645(大化元)年、蘇我氏を倒した中大兄皇子が、日本初の元号「大化」を定めた。以来「平成」まで247の元号が定められている。朗読の日日本朗読文化協会が制定。「ろう(6)ど(十)く(9)」の語呂合せ。桜桃忌,太宰の日,太宰治生誕祭1948(昭和23)年、6月13日に自殺した作家・太宰治の遺体が発見された。6月13日、太宰治が戦争未亡人の愛人・山崎富栄と東京の玉川上水に入水心中し、6日後の19日に遺体が発見された。また、19日が太宰の誕生日でもあることから、6月19日は「桜桃忌」と呼ばれ、三鷹市の禅林寺で供養が行われる。その名前は桜桃の時期であることと晩年の作品『桜桃』に因む。太宰治の出身地・青森県金木町では、生誕90周年となる1999(平成11)年から「生誕祭」に名称を改めた。1933(昭和8)年御殿場まわりだった東海道本線を短絡する丹那トンネルが貫通。全長7804m1948(昭和23)年衆参両議院で教育勅語等の失効を確認する決議1955(昭和30)年近鉄の武智文雄投手がパリーグ初の完全試合を達成今日の誕生日の花:ノアザミ花言葉:私をもっと知ってください今日の一句:殻の渦しだいにはやき蝸牛 山口誓子 出典は今日は何の日、毎日が記念日http://nnh.to/及びNHKラジオ深夜便から引用しています。
ぷわらさん、みなさん、まいど。> > KAMEさん、お元気でしたね。よかったぁー。> 17日がなかったので、もしかして今流行のお風邪でも召されたかと、ちょっと心配してました。> > > 総理府(現在の内閣府)が1966(昭和41)年に制定。国際協力事業団移住事業部が実施。> > 1908(明治41)年、本格的な海外移住の第一陣781人を乗せた笠戸丸が、ブラジルのサントス港に到着した。> > もう100年以上前のことなんですねえ。> どんな方が移民になっていかれたのでしょう?> > 以前ニュージャージー州に住んでいたとき、その町はブラジルとペルーの移民がたくさんいたのですが、日系人もけっこういました。> 顔はすっかりスパニッシュなのに、名前が「としろう」とか「さとこ」とか。> 日本語を勉強していて、いつか日本に行って見たい、なんて、私を日本人だと知るとうれしそうに話してくれたものです。> > 移民は祖国をとても大事に思っています。> 日系人はもしかすると日本にいる日本人よりも、もっと日本が好きかもしれません。> 日本に働きに行ったり定住しようとしている日系人が、そういう大好きな日本に失望しないでいられるようであってほしいです・・・ ほんと。そう思いまっけど、どうも、小泉さんが、アメリカの大統領に付いていったのが不味かったか、どうも、景気は良くなくて、すみまへん。 官僚機構の問題かも、しれませんが、当分駄目みたいです。 ここへ来て、ギリシャのスカタンでユーロが下がり、アップ、アップしてるみたいです。 とにかく、円高を有効に利用できないみたい。官僚は過去に例がないことは、アカン。 Twitterなんかも、「会議が躍る」状態です。 日系人の方におわびしますわ。 わたしでは、なんの、役にもたてまへんけど。