みなさん、今日は今日は何の日、4月1日エイプリルフール,万愚節罪のない嘘をついて良いとされる日。日本では「四月馬鹿」とも呼ばれる。その昔、ヨーロッパでは3月25日を新年とし、4月1日まで春の祭りを開催していたが、1564年にフランスのシャルル9世が1月1日を新年とする暦を採用した。これに反発した人々が4月1日を「嘘の新年」として位置づけ、馬鹿騒ぎをするようになったのがエイプリルフールの始まりとされている。また、インドでは悟りの修行は春分の日から3月末まで行われていたが、すぐに迷いが生じることから、4月1日を「揶揄節」と呼んでからかったことによるとする説もある。新学年学年度始めの日。4月1日から翌年の3月31日を「年度」として括る。元々日本では、特に入学の時期は定められておらず、年中入学可となっているのが普通だった。。1886(明治19)年10月に、高等師範学校が学年暦を4月1日からと定め、1888(明治21)年から全国一斉にこれにならうようになった。1876(明治9)年 明治政府が男子の満20歳以上を丁年(成年)と定める 1938(昭和13)年 「国家総動員法」公布。5月5日施行。国民生活の全てが国家の統制下に置かれる 1945(昭和20)年 米軍が沖縄本島に上陸開始。ニミッツ大将指揮下の6万人が嘉手納海岸に上陸 1964(昭和39)年 日本人の海外渡行が自由化。年1回まで、持ち出しは500ドルまでの制限附き 1987(昭和62)年 国鉄改革により国鉄が旅客6社・貨物1社に分割民営化 1989(昭和64)年 「消費税法」施行。3%の消費税を実施 1997(平成9)年 「消費税法」改正。消費税率が5%に 今日の誕生日の花:カブ花言葉:慈愛今日の一句:眼にあてて海が透くなり桜貝 松本たかし 出典は今日は何の日、毎日が記念日http://nnh.to/及びNHKラジオ深夜便から引用しています。
つい最近、というのは30日の報道で、フランスはアルベールビルに住む27歳と25歳の、二つ違いの身障者の姉妹(レティシアさんとセリーヌさん)が、ふたりで一緒にパリのコンサートへいこうと思って、二人分のTGVの切符を買おうとしたら、拒否されたというので、大変な問題になっているらしい。 そのTGVには一列車につき一台しか電動の車椅子がないからというのが鉄道側の言い分らしい。鉄道線路同様、規則は簡単には曲げられないという。もしどうしてもと云うのなら、発車時間の違うふたつの列車に分乗して旅行してくれ、と。 姉妹は4月27日パリで行なわれるミーカ(またはミカ)のコンサートへ行く予定だったとか。そこでこのミーカ、当然若い女のシンガーの名前と思った。まあ、しかし、もしかして違うかもと思い、一応調べてみるとやっぱ違って居った。(-_-;) これってスゴイですね。レバノン生まれでロンドン在住。お父さんがアメリカ人で、シンガーソングライターはいいとして、その上グラッフィックデザイナーって、えーっ、なにこれ?って感じ。さらにさらに、驚くべき事実が!鉄腕アトムやたまごっちなどのフィギュアのコレクターで、おまけに宇多田ヒカルの友だちだって。(@_@;) なこたあまあ、どうでもいいんですが、いまこれがフランスでは大問題になっているらしい。たとえば、ル・モンド紙などは、障害者に呼びかけて(あなたの障害の状態)、あなたが、通勤通学、および普通の旅行で、今までにぶつかったバス、地下鉄、列車、航空機などでのトラブル、また、旅行を諦めたケース、あなたの考える解決策など、あったらこちらへ、どしどし書き送ってください、などと遅ればせながらキャンペーンを開始した模様。 政府もそうしたトラブルを念頭に、早速対策に本腰を入れるつもりらしい。しかし、あっしなどはフランスなどは当然、この方面は日本などよりは、はるかに進んでいると思っていたのだが…。(@_@;)
> Toshichanさん、みなさん、こんにちは。 > > この、6・3・3・4制というのは、アメリカと一緒なのでしょうか?> 基本的には同じなようです。> ただ、こちらは最初の6・3・3は日本ほどくっきり分かれてなくて> 1年生から12年生、みたいな感じです。> ちょっと早めに卒業することもできます。 > でも、日本とすごく似ていて、公立の学校と私立の学校がありますし、> 保育園や幼稚園もあり、教育ママは「お受験」に熱くなり、> 逆に無関心で教育しない親もいます。> アメリカが日本に似てるのか、日本がアメリカに似てるのか、> ま、おなじようなもんです。 日本は一度入ってしまうと、ところてん式に、勉強が出来なくても、卒業させてしまうのですが、この点は、どうなのでしょう? > ひとつ似ていないのは、きのうからこちらは大変なニュースになっているのですが> 高校で女子生徒がいじめられて自殺したというニュースです。> 日本と違って、いじめはニュースで大騒ぎになるほど稀なことです。> 小競り合いはありますが、日本ほど我慢を強いることなく、> すぐに補導されたり親や教師が逮捕されたり、転校したりと処置が早いためだと思います。> 今回のいじめは、そんななかでとても衝撃だったようです。> 日本のいじめもはやくなくなるといいのですけど・・・ 軽い、イジメは、私の子供の時から、有りましたけれど、最近酷いみたい。 私立が、浮遊層に好まれるのは、この点にもあるようですね。 それに、モンスターマザーという、うるさ型の親が現れ、先生は大変みたい。 Toshichan in Kyouto-fu
Toshichanさん、みなさん、こんにちは。> この、6・3・3・4制というのは、アメリカと一緒なのでしょうか?基本的には同じなようです。ただ、こちらは最初の6・3・3は日本ほどくっきり分かれてなくて1年生から12年生、みたいな感じです。ちょっと早めに卒業することもできます。でも、日本とすごく似ていて、公立の学校と私立の学校がありますし、保育園や幼稚園もあり、教育ママは「お受験」に熱くなり、逆に無関心で教育しない親もいます。アメリカが日本に似てるのか、日本がアメリカに似てるのか、ま、おなじようなもんです。ひとつ似ていないのは、きのうからこちらは大変なニュースになっているのですが高校で女子生徒がいじめられて自殺したというニュースです。日本と違って、いじめはニュースで大騒ぎになるほど稀なことです。小競り合いはありますが、日本ほど我慢を強いることなく、すぐに補導されたり親や教師が逮捕されたり、転校したりと処置が早いためだと思います。今回のいじめは、そんななかでとても衝撃だったようです。日本のいじめもはやくなくなるといいのですけど・・・
ぷわさん、みなさん、まいど。 > > 教育基本法・学校教育法公布の日> > 1947(昭和22)年のこの日に公布、翌日から施行され、学校教育の6・3・3・4制が発足した。 > 教育は国の礎。> 教育基本法や学校教育法もできて半世紀たつんですね。> ちょこちょこ改正するのもけっこうですけど、そろそろ大掛かりな見直しが必要になってきたかも、って思います。 この、6・3・3・4制というのは、アメリカと一緒なのでしょうか? Toshichan in Kyouto-fu
> トウガラシ> 南米産のトウガラシがどういう経路で朝鮮半島に伝わったか。> 朝鮮の文献によると日本から伝わったものとされている。> 他の本からの知識だが、秀吉の朝鮮侵略のとき、寒いからトウガラシを着物の中に入れて温めるのに使ったのではないかという説がある。今読んでいる本にも寒い朝、足が冷たいといって学校に行きたがらない娘に母親が、長靴に赤いトウガラシを入れてくれたという話が書いてある。著者は、あのぬくもりが忘れられないという。この本には、アフリカのキリマンジャロ登山の時、ポーターたちが「ピリピリ(唐辛子)を食べると温まるよ」と言ったことを書いている。そしてネパールのポーターたちも同じように「体が温まる」と、歩きながら生のままかじっていたことも書いている。 (小倉董子おぐら・のぶこ:山歩き讃歌)
> 齋藤孝 東大卒 明治大学教授【眉山】 人はみな誰かの仲間になりたい存在だ。眉山は飲み屋で働いている娘である。眉山は飲み屋の女の子のあだ名である。本人が知ったかぶりをして、ある人のことを「ああ、わかった。川上眉山」と言ったからである。川上眉山は明治の文学者でとうに亡くなっていたのに、それをさも得意そうに知ったかぶりをして「川上眉山」といったから、そんな渾名をつけられた。その飲み屋には文学者や芸術家たちが集まってきて、夜毎に芸術談義に花を咲かせている。眉山はそんな芸術家たちが大好きだ。本人は田舎娘で色黒で、あまり器量がよくない上に教養もないのだが、インテリたちの仲間に入りたくてたまらない。ろくに知識もないくせに、すぐ話に割り込んでくるので、客たちにはたまらなくうっとうしい存在である。「あれであんがい自惚れているんだぜ。僕たちにこんなに嫌われているとは露知らず、かえってみなの人気者.....」自分が嫌われているのも知らず、かえってみんなの人気者だと勘違いして話しに割り込んでくる空気の読めない人。かわいそう。あるとき誰かが「基本的人権というのは」と言いかけると、眉山がすかさず「それはどんなんですか。やはり、アメリカのものなんですか。いつ、配給になるんです」と矢継ぎ早に聞いた。人権を人絹と間違えたのである。彼女は、ほんとうはトシちゃんという名だった。太宰の出ている本を買ってきた。それには酷評が出ているから太宰は怒った。怒られて何も知らない眉山は素直に本をしまいこんだ。彼女はおしっこを我慢するから、トイレを汚したりした。そこで女店主はあるとき、彼女を病院に連れて行った。なんと眉山は腎臓結核であった。もう手の施しようがなく、常連客に挨拶もなく故郷に返されてしまった。その話を聞いて、あんなに悪口を言っていたみんなは、彼女を誤解していたことに気がついた。みんな心から悲しんだ。「いい子でしたね」「いまどき、あんないい気性の子はめったにありませんよ。私たちのためにも一生懸命つとめてくれましたからね」確かに夜中の二時でも三時でも「お酒」と言えばすぐに「ハイッ」と返事をして少しも嫌がらずにお酒を持ってきてくれたけなげな女性だった。太宰は思わず涙が出そうになってしまう。彼女はおしっこが近くて、みんなはそれを笑いものにしていたが、それも腎臓結核が原因だったわけだ。眉山は、ほんの少しでも自分たちのそばに長くいたくて、おしっこを我慢していたのだ。階段をドスンドスンと上っていたのも、病気が大儀で、それでも無理して自分たちにつとめてくれたのだ。みな自分の好きなグループに入りたい。たとえそのグループが自分を拒否しても。だから、眉山も病気なのにおしっこを我慢して、それでも一生懸命集団に尽くす。あとでそれがわかっても、もう取り返しがつかないのだが、いままで自分たちがウザいと思っていた人が、本当は自分たちにとってかけがえのない存在だったことに気づかされることが、人生にはあるものなのだ。眉山は短編だが、世の中や人間を見る目が変わる小説である。【カチカチ山】 ほれた男のおろかさとほれられた女の残酷さなぜ兎はかくも狸に残酷になれたか。カチカチ山の物語における兎は少女、そうしてあの惨めな敗北を喫する狸は、その兎の少女を恋している醜男、これはもう疑いをいれぬ厳然たる事実のように太宰には思われる。兎の仕打ちは、執拗すぎる。一撃のもとに倒すというような颯爽たる仇討ちではない。生殺しにして、なぶって、なぶって、そうして最後は泥舟でぶくぶくである。この兎は十六歳の処女だ。いまだ何も色気はないが、しかし、美人だ。そうして、人間のうちでもっとも残酷なのは、えてして、このたちの悪い女性である。太宰によると美少女は「気に入らぬものには平気で残酷なことをする」しかし「男は、それも愚鈍の男ほど、こんな危険な女性にほれ込みやすいものである」ということになる。この話は現代の男女関係にもよくあるという。たとえばものすごくきれいな女性が、自分が好意をもつ男性に対しては、にこやかに接しているのに、「この人、醜男だわ。気持ち悪い」と思っている男から声をかけられようものなら、もう毛虫か何かを見たように「ひぇっ」という顔をしてそそくさと逃げていくのを、何度も見たことがあるという。 著者の研究室のゼミなどで、そういう光景を見たらしい。 ♪ ♪最近見たコミック「ニャロメ」もそうであった。猫のニャロメは人間の女の子に恋するが、ことごとく拒絶される。拒絶されるだけではなく、騙されたり、体を傷つけられたり、あらゆるひどい仕打ちをされる。それでも懲りないニャロメはまた別の女の子が現れると恋をして傷つけられる。 赤塚不二夫も太宰治のように、若い女性の中に残酷性を認めていたのだろうか。
齋藤孝 東大卒 明治大学教授 以下は著者が太宰の作品を勧める文章です。太宰の作品は一度は読んでおくべきもの、というかその世界の中に潜っておくべきもの。傷つきやすさとプライドとの間でぎりぎりと心がさいなまれ、しかしいい小説を書きたいとあがきながら、絶望もする。それは十代から二十代の人たちが、一度は通過する青春の悩みに似ているのではないかと思う。簡単にいえば、まだ社会的にポジションが定まっていない状況の焦りである。これがもう会社に所属して、しっかりと地位が定まり、課長とか部長と呼ばれるようになったら、太宰治を読んでもピンと来ない。なぜなら社会的なポジションが固まって評価が決まった人は、自分自身が安定してしまうので、太宰のようにふわふわと揺れ動き、でもプライドだけが高いような在り方ではなくなってしまうからである。だが、そうしたどっちつかずの傷つきやすい状態を、人生の中で一度はしっかりくぐり抜けておいた方が、人間的に豊かになれると思う。ーーーーーーーーーーーーーー【富岳百景】 苦しみを抱えながら、明るく前向きに生きる太宰。人の苦しみに感応する感性をもとう。富士山は大きくて動かない存在だが、それと自分という存在を比較すると、人間はいつもフラフラしていて、なかなか生き方が定まらない。訪ねてきた郵便夫から「太宰さん」と呼びかけられながら「太宰さんはひどいデカダンで、それに性格破産者だ、と佐藤春夫の小説に書いてあった。まさか、こんなにまじめな、ちゃんとしたお方だとは思いませんでした」と言われた。デカダンというのは、頭はいいのに真面目に働かずなげやりな気持ちで乱れた生活をする人のことである。でも、ほんとうの太宰は悪い人ではなく、他人の不幸を聞くとつい気になってしまう優しい人である。主人公の太宰は峠の茶屋に下宿し原稿を書いている。師匠の井伏鱒二が、この御坂(みさか)峠の頂上の天下茶屋の二階で仕事をしていたのを太宰も追うようにしてきたのであった。ここからの富士山は風呂屋のペンキ絵のように俗っぽい。(この御坂峠へは甲府からバスでたどりつくのである。 師匠の井伏は、彼を連れて甲府に行き見合いをさせる。見合いの席から見た富士はまことに立派で、きっとこの見合いはうまくいくと思う)さて峠の茶屋で原稿を書いている太宰の目の前に、遊女の団体がやってくる。どうやら年に一度の開放の日らしい。自動車五台に分譲してやってきた。遊女たちは峠にたたずんで富士山を眺めたり茶屋で絵はがきを選んでいる。その風景が「暗く、わびしく、見ちゃおれない光景であった」と主人公は言う。(若い娘たちが元気にはなやいでいる様子とは反対に、のろのろとした動作で意欲とか精気が感じられなかったのだろうか)不幸な身の上の人たちの集団を見て、「苦しむものは苦しめ。落ちるものは落ちよ。私に関係したことではない」と思おうとするのだが、でも「私は、かなり苦しかった」と白状している。 苦しくなった彼は、富士山に頼もうと思った。そのときの富士山はどてら姿でふところ手して傲然とかまえている大親分のようにさえ見えた。 そういう富士山に頼んで安心し気が楽になった太宰だった。つまり彼は人の不幸で自分が傷ついてしまうタイプの人なのである。世の中には気の毒な人を見ても「それはしようがないことなんだよ。人それぞれいろんな事情があるんだから」とすっきり整理できてしまう人もいる。それがいわゆる大人だとすれば、太宰はまったく大人ではない。今はいわゆるポジティブシンキング、つまり前向きに考えることがよしとされる風潮がある。だから太宰のような一見ネガティブな人は暗いと言われて排除される傾向にある。もちろん何があっても前向きに生きていこうとというポジティブな考え方は間違っているとは思わないが、でも何かアメリカ的なポジティブシンキング一辺倒の考え方にふれると、少しうんざりするのは私だけだろうか。アメリカは「何があってもノープロブレム! 勝つのは俺たちだ! USA! USA!」とノー天気なことを言って、それ一辺倒で突き進むから、ベトナムやイラクに出かけていって、たくさんの民衆が死んでも、あまり痛みを感じないのかと思ってしまうほとである。戦争ばかりやっている国が典型的なポジティブシンキングであるというのは興味深いことである。それとは反対に、決してポジティブではないが、人の悲しみに感応して、自分の心が苦しくなってしまうという心のあり方をしている人は、弱いというより優しいのではないだろうか。世の中には自分の心がまったく傷つかない鋼鉄のような人がいる。たとえば振り込め詐欺をやって、お年寄りからお金をまきあげても「だまされるやつが悪いんだ」と開き直り、刑務所に入ってもまったく反省しない。私もそういう人を見たことがある。その人は自分が関わったいじめで、人を一人自殺に追いやってしまったのであるが、当人にはまったく反省が見られない。人が一人命を絶ったというのに「自分こそ面倒にまきこまれた被害者だ」といった感じであまり反省がなく、そのあと女の子を連れて「ハハハハ」と笑っているような人である。ある意味、非常にポジティブシンキングであるが、そういう人を目の当たりにしたとき、やはり人間ではないものを感じてぞっとする。本来なら、自分が人を自殺に追いやったことの重みや辛さを抱えて一生生きていかなればいけないのに、法律的に責められなかったからといって、すっきり忘れて整理できてしまう。その心が勘違いなポジティブシンキングである。ポジティブシンキングの悪い形には、想像力の欠如がある。他人の痛みや苦しみに対する想像力が欠如しているから心が傷つかない。それは本当の心の強さではない。さきほどポジティブシンキングの例としてアメリカを出したが、昨年からの世界的な経済大不況の元凶にも、やはりアメリカ的な想像力の欠如があったような気がする。すでに周知のように、この大不況の原因はアメリカのサブプライムローンであった。本当は商品にもならないものに価値をつけて、世界中の人たちに金融商品として買わせていたのがサブプライムローンの出発点であった。それは保証のない一種の詐欺的行為であったが、世界中がそれを信じて、でも最後は「やはり詐欺であった」ということがわかり、全世界が一気に大不況におちいったのである。でもその原因を作った人たちは何も反省していない。自分たちだけがもうかればそれでよかったので、勝ち逃げして、しゃあしゃあとした顔をしている。倒産したリーマンブラザーズの会長は、この七、八年で四百億円ものお金をもらっていたそうであるが、それを返すわけでもなく責任も取らない。回り回って日本も不況になり会社もずいぶんつぶれた。勤めをクビになる人もたくさん出て、ホームレスになったり、自殺者がもっと出るかもしれない。でも、サブプライムローンで儲けた人たちは、そういうことに想像すら及ばないのである。【女生徒】 女子の気持ちを知りたいとき読む明治生まれの男がよくこういう作品を書けたものだ。文体もやわらかくソフトで、女生徒のふわふわした気持ちがあふれるように伝わってくる。彼女は「何が気持ちよくて、何が気持ちよくないか」という感覚で生きている。 男子学生では「人生をいかに生きるべきか」「志とは何か」といった問いが支配的であった。この女生徒にとっては、大切なのは何が感覚的に気持ちがよくて、どれが嫌なのかである。あるいは何が美しくて、どれが醜いかという感覚が第一に優先され、その感覚で日常が支配されている。1980年代は価値観という言葉であったものが、現代の若者には価値感を当てる者が多い。この女生徒は価値感を先取りしている。難しい言葉を使わずにずっと細かい心のひだを言葉にしているところが、太宰のすごさである。女生徒を読むと、日常生活をこんなにも豊かに表現できるのかと驚く。その語彙の豊富さの根本には丁寧に言葉で表現する習慣の積み重ねがあるのである。【走れメロス】この作品は話の筋が大事なのではなく、日本語の奔流に身を任せるところが重要である。作家の日本語がうまいかどうかは音読してみるとよくわかる。【駆込み訴え】 どんなに愛しても、人は自分が思うほどには自分を思ってはくれないものだ片思いのユダ かれは同性愛者だった キリストは両刀使い?可愛さ余って憎さ百倍。 マリアとマルタの家のキリスト(フェルメールの絵)この田舎娘マリアが香油をキリストにかけた。三百デナリもする油 そのお金を貧乏人にほどこしてやればよかったのにと言うユダ。キリストは「この女を叱ってはいけない。この女の人は大変いいことをしたのだ。貧しい人にお金を施すのは、おまえたちには、これからあとあといくらでもできる。私にはもう施しができなくなっているのだ。そのわけは言うまい。この女の人だけが知っている。この女が私の体に香油を注いだのは、私の葬いの備えをしてくれたのだ。おまえたちも覚えておくがよい、全世界、どこの土地でも、私の短い一生を言い伝えられるところでは、必ずこの女の今日のしぐさを記念として語り伝えられるであろう」と語った。キリストの顔を見ると何か上気している顔である。こんな貧しい百姓女に恋に似たあやしい感情を抱いたのではないかとユダは感じたのだ。今までどれだけキリストに尽くしてきたろうか。優秀なマネージャーであったユダは、どこからかお金を工面してきて、キリストと弟子たちの生活のめんどうをみてきた。それもキリストが好きだったから。だが、そんなユダの苦労も好意も、こんなキリストの愛の裏切りの行為の前には、吹き飛んでしまった、許せない! そう思って発作的にキリストを訴えたのだろう。
みなさん、今日は会員の作品ページ、俳句の更新しました。http://fmellow.s103.xrea.com/senryu/haiku.htmメロウ句会3月収録しました。ご覧下さい。
KAMEさん、みなさん、おはようございます。> 教育基本法・学校教育法公布の日> 1947(昭和22)年のこの日に公布、翌日から施行され、学校教育の6・3・3・4制が発足した。教育は国の礎。教育基本法や学校教育法もできて半世紀たつんですね。ちょこちょこ改正するのもけっこうですけど、そろそろ大掛かりな見直しが必要になってきたかも、って思います。