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[No.15370] マンガをもっと読みなさい 投稿者:男爵  投稿日:2010/06/16(Wed) 10:49
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マンガをもっと読みなさい 対談 養老孟司・牧野圭一  晃洋書房

牧野圭一は近藤日出造に師事した政治漫画家で、京都精華大学名誉教授。
対談の中で
養老孟司はマンガの効用を理論的に解説する。

日本人の脳において
漢字を読んでいるときと、カナを読んでいるときでは、脳は別々の場所を使っている。
というのは、脳が故障を起こしたとき、漢字が読めなくなるか、カナが読めなくなるかのどちらかになるという症状から、別の場所がこわれたんだということがわかる。
カナを読むのは「角回(かくかい)」という場所であるが、ここがこわれた場合、外国人は文字がいっさい読めない状態になる。
ところが日本人はカナは読めないが、漢字は読めるという状態になる。
漢字を読む場所が壊れると、日本人は漢字は読めないが、カナは読める状態になる。

高橋留美子「うる星やつら」に錯乱坊という坊さんが出てくるが、「錯乱坊」には「チェリー」とルビがふってある。
それが怒鳴っている吹き出しの中に「揚豚」と書いてあって「カツ」とふっている。
これは、意味を持った図形(漢字)があって、それに音声をふっていることでジョークにしている。高橋留美子は、マンガというのはこれだということを実によくわかって描いている。

マンガは文字と違ってアイコンである。だから「目でなきゃ、わからない」という性質を含んでいる。同じように「ギャー」とか「ワー」とか、ともかくありとあらゆる擬音語も入っている。「耳ではかわからない」ということも含んでいる。そこが大切である。言葉にはそれが入っていない。
逆にそういうものが入ってているから、マンガはバカにされる。でもそうした感覚の世界がじつは大切なのである。

マンガは絵画的要素も音楽的要素も言葉もふくむ総合作品である。

(鉄腕アトムのことからロボットに話題が変わり)
ロボット研究を、私は非常に評価している。従来の科学研究とさかさまな面を持っているからである。
どこがさかさまかというと、今までの科学は動かないものを組み立てて動くものを作ってきた。
生物学や医学では、論文を書かないと偉くなれない。でも、論文を百万編集めても生き物にはならない。
論文とは止まったもので、生き物を上手に止める仕事がここ百五十年の間の偉い人のすることだった。
ロボットを一生懸命作っている学者がいたとする。彼は論文を書いている暇があったらロボットを改良しているだろう。それはある種の創作活動であるのに、その学問は評価されてこなかった。
それでは、部品を組み立てていけば生き物ができるかといえば、できない。複雑さが根本的に違う。
人間は12兆の細胞からできた、ものすごいややこしいものである。それを非常に乱暴にまねをしているのがロボットである。
いってみれば人間のマンガなのである。
しかし、それですら大変な進歩に見えるぐらいに、人間のまねをして動くものを作るのはむずかしかった。
ところが、ロボットを作っていくと、ある意味で人間が良くみえてきた。二足歩行を人間がどういうふうにやっているかということは、ロボットを作る過程で細かくわかってきた。
われわれは、考えなくても二足歩行ができる。理屈がどうかなど考える必要がない。歩く原理がわかってきて、やっと人間らしく歩けるロボットが作れるようになった。

なぜ人を殺してはいけないか。
時計をバラしたって組み立てられるが、人間はバラしたらだめなのである。とても作れるようなものではない。
そのとても作れない人間を殺してしまうのはきわめて簡単である。出刃包丁かナイフ一丁あればいい。
人間のややこしさに比べたら、原爆なんておもちゃみたいに簡単である。そういう簡単なものに、ややこしいものをこわす権利はないのである。

解剖の本はマンガである。
写真で解剖図を作った本もあるが、写真にはよけいな情報がたくさん入っているから、写真で作った解剖の本はあまり役に立たない。
解剖図を写真で見たら、神経は出ているは、結合組織はバラバラ、血管は色々と、解剖している本人でも、何が何だかわからなくなってしまう。
ところが、これを絵にしたらよくわかる。解剖は絵がないとどうにもならない学問である。
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養老先生の文章は奥が深い。あまりにも物事を知りすぎているから、それを読んでいくと、こちらも情報量の多さについていけなくなる。
上の例で、解剖の写真を見せられても情報量が多すぎるから、初心者向きではないということを述べているが、養老先生の文章も情報が多すぎる印象がある。

なぜ、人を殺してはいけないか。養老先生は、人間の体はあまりにも精巧で緻密にできているから、そんな複雑なものをこわすことはいけないのだとロボット研究者の立場になりかわって説明する。これもひとつの論理だろう。

マンガは絵画的要素も音楽的要素も言葉もふくむ総合作品であるから、言葉の論理からだけでなく、感覚からも情報が入ってくるので、受ける立場としては好都合である。
このことが、実は若者がマンガを受け入れる反面、活字離れの現象を生み出していることにもなる。どうも人間は楽なほうに流れるらしい。

医学や生物学の研究者は、生き物を上手に止めて論文を書いている。それは一種の静止画像みたいなもので、静止画像をいくらたくさん組み合わせても、本物の動画像にはならないというようなことを養老先生は述べているが、これは日ごろから解剖は死んだ生き物をあつかっているから、それをいくら資料を集めても生きている生物とは違うというようなことを言われてきた養老先生の思いを、ロボット研究者の応援に使ったみたいである。

なお、上には紹介しなかったが、この世のできごとについて誰もその真実はわからないということを養老説として述べている。
この世の現実はたった一つだけ、とみんな思っているが、その状況全部を完全に知っている人はいない。いるとしたら全知全能の神だけである。
たとえば
跳ね飛ばされた人は、跳ね飛ばされる瞬間に何を考えていたか。
車はどのぐらいのスピードで走っていたか。
いまさら確かめようがないことは山ほどある。
人間にはすべてのことはわからないのだから、真相はこうだと言われると、信用しない養老先生。


[No.15452] Re: マンガをもっと読みなさい 投稿者:男爵  投稿日:2010/07/05(Mon) 11:45
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> 高橋留美子「うる星やつら」に錯乱坊という坊さんが出てくるが、「錯乱坊」には「チェリー」とルビがふってある。
> それが怒鳴っている吹き出しの中に「揚豚」と書いてあって「カツ」とふっている。

「うる星やつら」とは、どんな漫画だったか。
ヒロインのうる星からきたラムちゃんという女の子が
仙台弁のように語尾に「だっちゃ」とつけて話す。
ヒーローの諸星あたるを勘違いして婚約相手とおもいこんで
あたるのことを「ダーリン」と呼ぶ。

そんなことしか覚えていない。「少年サンデー」に連載していたらしい。

いま改めて漫画を見てみると
この漫画と「めぞん一刻」とを混同していたらしい。
作者がどちらも高橋留美子だったから。
「めぞん一刻」は
「時計坂」という町にある「一刻館」という名の古いアパートの住人・五代裕作と、管理人としてやって来た若い未亡人・音無響子を中心としたラブコメデイ。
こちちらは「ビッグコミックスピリッツ」に連載された。