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[No.15669] なぜ同胞を殺したのか 投稿者:男爵  投稿日:2010/08/24(Tue) 09:46
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なぜ同胞を殺したのか
  ポル・ポト 墜ちたユートピアの夢
    井上恭介・藤下超  NHK出版   2001

ポル・ポト(サロト・サル)はパリに留学し共産主義を学んだはずだったが、その理論は空想的だったようだ。
計画性もなく具体性にも乏しい政策、思いつきで人々を強制移動させ強制労働させ、反対者は命を奪って口を封じたようだ。

自分に逆らうものはすべて殺したポル・ポト、ふりかえれば、スターリンみたいな面があったということ、毛沢東にもそんな面があった。
ポル・ポトにはスターリンや毛沢東のような光の部分が少ないから、暗い面ばかり目立ってしまう。

コンポントム州のイスラム教徒チャム族はポル・ポトにより強制移住をさせられた上、豚を無理矢理食べさせられた。食べなければ殺された。

フン・センがポル・ポトからの粛清を避けてベトナムに逃げ込み、ベトナムはフン・センたちを助けてカンボジア侵攻を計画する。
そうなると
ベトナムを支援するソ連に対抗するため、中国はポル・ポトを支援する。

政権奪取後 ポル・ポトはシアヌークを幽閉し、一方中国はポル・ポト政権に経済顧問を派遣し「パトロン」として振る舞いながら、アメリカとの国交回復という歴史的大転換を画策していた。

アメリカは人権重視を掲げるクリントン政権下でポル・ポト派幹部たちの責任追及に執念を見せ始めていた。
旧ユーゴでの民族浄化とルワンダでの虐殺をめぐって国連主導の国際法廷が設置され、それなりの成果を上げようとしていた。
ポル・ポト死後に、アメリカはポル・ポト政権時代の大量虐殺に係わった幹部を沙漠国際法廷設置を国連安全保障理事会にに提出した。
中国は、ポル・ポト政権への中国の関与が国際法廷で明らかにされるのを怖れて反対した。

大国の都合で振り回され続けてきた小国カンボジアの歴史。

読んでもさっぱりわからない本だった。
内ゲバ、ポルポトの狂気、ベトナムとの昔からの対立、タイとの関係も原因のひとつ。

1863 カンボジアがフランス保護領
1940 日本軍北部仏領インドシナ進駐
1941 日本軍カンボジアを含む南部仏領インドシナ進駐
1945 3.9 日本インドシナ駐留フランス軍を武装解除
   3.12 シアヌーク国王カンボジア独立宣言
   8.15 日本降伏
   10 フランス軍カンボジア再植民地化
1946 フランス軍とベトミン武力衝突 第一次インドシナ戦争勃発
1949 サロト・サル パリ留学
1953 シアヌーク カンボジア完全独立宣言
1954 第一次インドシナ戦争終結
1963 サロト・サルらクメール・ルージュ幹部プノンペン脱出 ベトナム国境を拠点に地下活動入る
1964 アメリカ ベトナム戦争に直接介入
1968 クメール・ルージュが武装闘争開始
1969 米軍カンボジア領内の秘密爆撃開始
1970 3.18 ノン・ノルによるクーデター シアヌーク国家元首から追放
   3.23 シアヌーク 民族統一先生結成 カンボジア内戦勃発
1973 アメリカと北ベトナムがパリ和平協定に調印 ベトナム軍カンボジアから撤退始まる
1975 4.17 クメール・ルージュ プノンペン制圧
   4.24 ポル・ポトらプノンペンで開放記念式典開催
   4.30 サイゴン陥落 ベトナム戦争終結
   10 米増産のためプノンペン周辺から北西部へ新人民強制移動
1976 4.14 ポル・ポト首相就任 シアヌーク国家元首解任 キュー・サムバン国家元首に
1976 9.20 ポル・ポト首相辞任 ネイ・サランら古参有力幹部の粛清始まる
   12.20 ポル・ポト党内の敵の粛清支持
1977 6.20 フン・セン粛清を避けベトナムに逃亡
   12 ベトナム軍戦車舞台が警告のためカンボジア東部に侵入
1978 8.6 東部の住民数十万人北西部に強制移動
   10 北西部に移動させられた東部住民の組織的大量虐殺始まる
   11.3 ベトナム ソ連との友好協力条約締結
   12.15 米中国交正常化発表
1993 カンボジア王国発足 シアヌーク国王就任 
1997 6.18 ポル・ポト 派内で失脚 タ・モクに逮捕される
   7.6 フン・セン派部隊がプノンペン制圧
1998 4.15 ポル・ポト死亡
   11.30 フン・セン首相就任
2000 カンボジアと国連で特別法廷設置で合意


[No.15670] ポル・ポト革命史 投稿者:男爵  投稿日:2010/08/24(Tue) 10:00
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ポル・ポト革命史
  山田寛著  講談社  2004

人口800万人足らずの小国で、推定150万人もの国民を死なせた。
ポル・ポト政権は教育をほぼ全面否定した。その後遺症は大きい。
(軍事政権下のミャンマーも教育者研究者にとっては暗黒時代、私の知っている研究者はオーストラリアに逃げて大学教授として生活している)

民族解放という名前だけで、日本の文化人は応援した。中身も知らないのに。

1997、ポル・ポトは米ジャーナリスト、ネト・セイヤーに語る。
フランス留学中は本を読んでいた。インドのガンジーの運動の本も読んだ。(彼のしたことはガンジーとは正反対だ)
比較的裕福な農家に生まれた。姉は国王夫人の一人だった。

シアヌークは信長によって飾り立てられた足利義昭将軍みたいなもので、信長に相当するのが中国だろう。
中国はシアヌークを利用したのだろう。中国の狙いは、カンボジアをはじめ東南アジア支配だから。
ベトナムが長い民族独立の歴史を誇るとき、宿敵は中国だろう。

クメール・ルージュ兵士に不満をぶつけたり、兵士と口論して、連れ去られ殺された者は多い。

1975年頃、シアヌークは周恩来に語る。
「内戦勝利後はクメール・ルージュとは協力できない」
周恩来はそれに理解を示しながら
「今それを公表したら、殿下の大儀のために戦っている人民がたちまち戦意を失い、ロン・ノルとアメリカに負けてしまう」と釘をさした。
毛沢東も、シアヌークとクメール・ルージュは分裂しないほうがよいと言った。
シアヌークとクメール・ルージュの仲介の労をとった金日成を、シアヌークは世界一の親友と呼んだ。
シアヌーク危機の時、中国は彼を北京に招く。シアヌークはポル・ポト派のために国連の演壇に立った。中国はシアヌークを利用した。シアヌークも中国もベトナムの圧力を感じていたから。

ポル・ポトの発言
僧侶は寄生虫であり、黄色い衣裳の怠け者で、売春婦と同じで生かしておいてもためにならない特殊階級。いかにも共産主義。
(ポル・ポト時代迫害され消滅したかにみえた仏教は、また奇跡的に復活した)

1976、選挙において新人民はほとんど投票が認められなかった。
ポル・ポトは北京訪問で大歓迎を受けた。

カンボジアの工業は弱い。朝鮮は日本が投資した工業基盤があった。
とポル・ポトは認めている。
(これを聞くと朝鮮半島の人々は怒るかもしれないが、歴史的事実であると著者は述べる)
(中国大陸、台湾、朝鮮半島にインフラ整備した戦前の日本。日本本土より外地に金をかけた)

こども看守に毎晩イソップ物語を話して聞かせた元英語教師、楽しんだこども看守は、彼だけ殺さなかった。他の囚人は全員殺された。

子ども医師、子ども看護師は毛沢東の裸足の医師の真似。子どもといっても二十歳くらいの若者を指す。

アルコール遺跡修復・保存の専門家育成に取り組んできた石澤良昭上智大学教授は言う。
若い頃カンボジア国立遺跡保存事務所でともに研究した30人あまりの研究生は、ポル・ポト時代に殺された。いま後進のカンボジア人専門家を育てることが、彼らへの鎮魂である。


[No.15671] 池田維:カンボジア和平への道 投稿者:男爵  投稿日:2010/08/24(Tue) 10:52
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カンボジア、ポル・ポト革命など、何冊か本を読んできましたが
この本は政府側の立場の本です。

副タイトル
「証言 日本外交試練の5年間」

カンボジア和平の過程は、大別して三つの局面に分けて考えることができるだろう。
第一は、政治・外交交渉とその結果としての合意形成の局面であり、第二は、国連による平和維持活動(PKO)の局面であり、第三は、カンボジア新政権に対する人権・難民支援、経済支援などの局面である。これらは本来、相互に密接に関連しあって和平の過程を形作ってきたものである。

  (中略)

カンボシアにおけるPKOへの日本の参加は、国際協力という角度から見る限り、日本は総参加国約100カ国の一国であった。またUNTAC要員2万2000人のうち、わが国からのべ1300余名が参加しただけであった。
しかし、日本の外国努力という角度から見れば、第二次世界大戦後の日本外交において、一つの分水嶺となる一大事業であったことは、いまさら他言を要しないだろう。

二人の日本人の尊い犠牲者を出したことは痛恨の極みであったが、なんとか日本のPKO派遣要員は、もっとも困難な時期において、カンボジアから撤収するという道をたどることなく、カンボジアに踏みとどまった。そして、その選択が正しかったことは、選挙の実施、新政権の樹立、カンボジア国民の日本人派遣に対する評価などの数々の事実によって裏づけられた。
もし、もっとも困難な時期において、日本が撤収の道をたどっていたとしたら − そしてそのことは、もう遠い昔のように忘れられているが、当時、野党や一部報道機関によって強力に主張された − 日本外国の信頼性は、今頃地に墜ちていたことだろう。
また、それは日本の信頼性にとどまることなく、UNTACの活動そのものに悪影響を及ぼして、場合によっては、UNTACの活動を瓦解させるきっかけとなっていたかもしれない。
そして、そのことは選挙遂行に反対していたクメール・ルージュの乗じるところとなっていたことは間違いないだろう。すぎさったこととはいえ、あの当時の薄氷を踏むような危うさと日本政府の行った選択を、もう一度よくかみ締めてみる必要があろう。

他方、PKO派遣要員として派遣された人々の安全性の問題をいかに考えるか、という点について、カンボジア和平への参画は、今後にいくつかの反省材料を残した。PKO派遣要員には可能な限りの安全を講じるとしても、危険は常に隣り合わせではないのか、そしてそのことを政府の側は率直に認める必要があったのではないか、国連傘下での参加である以上、日本人だけが特別の安全策を講じることは果たして可能か等など、については今後の論議に待たなければならない。

ただし、カンボジアの経験を経て、自衛隊の派遣が「国連傘下のものであっても軍国主義復活に通じる」といったようなステレオタイプの批判だけは、内外からほぼ姿を消した。
このことは、カンボジアにおけるPKOへの傘下がもたらした大きな成果の一つといわなければならない。

むしろ、シンガポールをはじめ東南アジアのいくつかの国が、一時撤収論が日本国内において真剣に議論されつつあった1992年5月ころ「日本は犠牲にめげず、カンボジアに最後まで踏みとどまるべきた」と訴えかけたことが印象的だった。
中国、韓国を含むアジア諸国をはじめ、国際社会は今日では例外なく、日本がカンボジアで行ったPKOへの貢献に積極的評価を与えている。
そして何よりも、日本のPKOへの協力が、全体として、カンボジア政府関係者と一般のカンボジア国民によって高く評価されたことは、わが国にとって初の事業であっただけに、今後の同種の協力に対して、励みと支持示を与えることになった。

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カンボジアには多数の地雷が埋められていた。
地雷を作って売ったのは日本以外の大国である。中国やソ連や他の国などである。
日本が地雷を取り除くノウハウをもって現地で作業をしたことは忘れてはならない。


[No.15732] カンボジアは誘う 投稿者:男爵  投稿日:2010/09/09(Thu) 22:20
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平野久美子:カンボジアは誘う 新潮社

パリのカンボジア避難民と知り合いになってから
カンボジア料理に親しんだ著者は
やさしいカンボジア人とおいしいカンボジア料理の本を書いた。

ついでに
著者からみたカンボジアの歴史や
ベトナムやタイとの隣国関係のおさらいもしている。
カンボジアもベトナムと同じ運命を受け入れ
清朝の衰退のあと、しばらくフランスの支配を受けた。
そして、フォークとスプーンとフランスパンのパゲットだけが残ったらしい。

香菜(チー)を食べられない日本人は、中国でも東南アジアでも
食事は辛いだろう。
カンボジアでも魚醤(プラホック)は日常の調味料だから、これに慣れることは
カンボジアだけでなく東南アジア全般の食事を美味しく食べる秘訣だろう。
たが、若者のプラホック離れも進んでいることを、この本では書いてある。

番外編として昆虫料理がせ紹介されている。
 ハチノコ、蚕の蛹、コオロギ、バッタ、アリ、マズスマシ
 生姜汁と醤油で甘辛く煮たハチノコ、タランチュランの炒り辛煮

カンボジアにおいても華僑や客家の経済力はたいしたもので
だから、都会で裕福な生活をおくっていたのが
ポル・ポト政権下で強制的に地方に移転させられ
命を奪われたものも少なくなかったようである。

この本を読むと
もう旅行者にとって
地雷の心配はないらしい。
もっとも自分勝手に歩き回ると危険だろうが。