オーストリアのハプスブルク家と音楽の都ウィーンの輝かしい伝統について述べた本である。 ハプスブルク家の音楽愛好の伝統は、それ以前にオーストリアを統治していたバーベンベルク家の伝統を踏襲したものである。
ハイドンはハプスブルク家からはあまり恩恵を受けなかったが、それにもかかわらず彼は「皇帝讃歌」の作曲によって王家へのオマージュを捧げた。 この曲は、オーストリア国歌として採用されたばかりでなく、ドイツ国歌の旋律ともなり、またフリーメーソンの組合歌ともなった。イギリス教会讃歌にもその一部が使われている。
マリア・テレジアの長男ヨーゼフ二世は、母以上に徹底した改革を行おうとしたため母子の間でことごとく意見が対立した。 母の死の後、新帝は矢継ぎばやに改革を断行した。 ヨーゼフの施策が基本的には善意から出た進歩主義や民主主義の思想に裏づけられていることは、カトリック以外の宗教に対する寛容令、出版の自由などを認めさせていることでもわかる。 しかし、一方では教育や病人看護をしていない教団や僧院を解散させ、教会に対する国家給付金を縮小している。 農奴を解放し、女性にも義務教育を課し、拷問を廃止し、ヨーロッパ最大の病院を設立した。 マリア・テレジアは嫌悪したプロイセン国王フリードリヒ大王にヨーゼフ二世は反対に敬意を払った。 ヨーゼフ二世もフリードリヒ大王も、啓蒙思想の影響を受けている点では共通しているが、フリードリヒ大王はフランス文化を崇拝し、フランス思想の影響下にあったのに対して、ヨーゼフはドイツ的なものを強調する傾向にあった。 ヨーゼフ二世は音楽を愛し、自分なりの見識をもっていたが、モーツァルトの音楽をあまり高く評価しなかった。 モーツァルトが不遇であったもうひとつの原因は、ザルツブルク大司教と反目し、ザルツブルクから追放されたことにある。 ヨーゼフ二世はザルツブルク大司教の不興を買いたくなかったので、大司教に追われたモーツァルトを優遇することにためらいがあったのだろう。
ベートーヴェンがボンで音楽教育を受けたのは、結局はハプスブルク家の保護を受けたことになる。 当時のボンを統治していたマクシミリアン・フランツはマリア・テレジアの息子であり、ヨーゼフ二世の弟であった。オーストリア大公、ケルンの選挙侯兼大司教という照合をもつ彼は、若いベートーヴェンの才能を認め援助の手をさしのべた。 こうしてベートーヴェンが音楽を学ぶためウィーンへ送られることになったが、結局ハプスブルク家の傘下にとどまったという点では変わってはいない。 ウィーンに行ったベートーヴェンが浅くない関係を保ったのは、ハプスブルクといっても、その頭首レオポルド二世やフランツ二世ではなく、その親族にあたる高級貴族たちであった。 前代のマリア・テレジアやヨーゼフ二世でも一般の音楽生活に対する支配力や影響力は弱まっていたが、ベートーヴェン時代には音楽のいとなみは貴族たちやさらには市民社会にその中心が移ってしまっていた。
まだ知らなかったハプスブルク家の歴史や音楽の造詣の深さを勉強することができた。 音楽家による音楽家のための本のようで、ウィーンに関係する音楽家たちのその音楽性や社会的な出来事(迫害されたり優遇されたり)について述べてある。
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