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[No.15713] 米沢冨美子:人物で語る物理入門 投稿者:男爵  投稿日:2010/09/06(Mon) 07:45
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女性で日本物理学会長になった人の本です。
岩波新書 980

夫のロンドン転勤に追うように
英国留学をする。
そのとき、かたはしから奨学金を得るための応募書類をつくって
英国の大学に送った中で、幸運にも留学を実現させてくれる大学があった。
液晶のアモルファスの研究者

ここでは
コペルニクス、ガリレイ、ケプーについて紹介します。

コペルニクスの地動説
ポーランド生まれのコペルニクス(1473−1543)が
コロンブスの新大陸発見(1492)のニュースを聞いたのは
クラコフ大学の学生だった19歳のときだった。
1522年にはマゼランの部下によって世界一周航路が見つけられ、地球が丸いことが確実になった。
コペルニクスは、クラコフ大学を卒業して、神学の勉強のためイタリアのボローニア大学に進んだ。
やがて
コペルニクスは天動説よりは地動説の方が天体観測の結果にあうことに気がつく。
このときはまだ望遠鏡ができていないから、コペルニクスは肉眼での観測だった。
当時の天文学では、プトレマイオスの天動説が支配的であったが、古代ギリシアの学者の中にはアリストテレスの曾孫弟子にあたるアリスタルコスの地動説もあった。
おそらくコペルニクスは、いろいろなギリシアの学者の説を読んで、その中から自分の天体観測にあった地動説を採用したのであろう。
コペルニクスは友人たちから勧められ、死の直前に地動説の著書を発表した。
この本には書いていないが、コペルニクスは(聖書に反した内容なので、教会に気を使い)この地動説は間違った説ではあるが、この説によれば天体の動きがうまく説明されると書いたという。
天動説から地動説への認識の変革は当時の人々に衝撃を与え、ドイツの哲学者カントも、主観と客観の逆転に関する自分の説の独創性を強調するために、天動説から地動説への転回になぞらえて「コペルニクス的転回」という表現を使った。この表現は、一般にものの考え方が180度変わることなどにも使われるようになった。

ガリレイ
ガリレイ(1564−1642)は実験と観測をよくした学者だった。
ピサ大学教授のガリレイは、はじめはプトレマイオスの天動説を教えていたが
コペルニクスの著書「天体の回転について」を読んでから地動説理解する。
このころはもう望遠鏡もできていたので、ガリレイは望遠鏡で木星の四つの衛星を観測したり、月の表面の報告もしている。
ガリレイは真面目な学者だからコペルニクスの地動説を全面的に支持したため、教会から地動説禁止の命令を受け悲劇的な結果となる。

テイコ・プラーエ
デンマーク生まれのティコ・プラーエ(1546−1601)は天体観測に興味をもち
国王フリードリッヒ二世の支援を受け、ベーン島の天文台で天体観測をづける。
望遠鏡の発明は1609年なので、彼も肉眼での観測だった。
天文台観測は20年続いたが、天文好きの国王の死後、予算は打ち切られ、宮廷とのもめごともあり、プラーエはドイツに亡命する。
ドイツでは皇帝の好意で宮廷数学管に任ぜられ、プラハ郊外の城を観測所として与えられる。
1600年に、プラーエは同じ追放の身の上であったケプラーの頼みを受けて、勅許を得て助手に雇う。
プラーエは膨大な観測データをケプラーに遺言委託する。
こうして貴重なデータをティコ・プラーエから譲渡されたケプラーは、これを整理してケプラーの法則を見つける。
ケプラー(1571−1630)はドイツの居酒屋の子に生まれ貧困に育ったが、大学の給費生に合格し、大学卒業後に高校の数学の教師となる。
当時のドイツは宗教戦争で荒廃していた。そして新教徒の迫害により、ケプラーは28歳でプラハに移住し、ティコ・プラーエの弟子となるのである。
ティコ・プラーエとケプラーの弟子関係はわずか一年あまりであったが、近代科学の発展にとっては奇跡のようなできごとであった。

こうしてガリレイからケプラーまで当時の学者たちが苦労して得た学問成果を
天才ニュートン(1642−1727)が大きく花開かせるのである。