細谷博:太宰治 岩波新書560太宰治の解説書のひとつである。まず、太宰治はペンネームをどうしてつけたか諸説はあるが太宰本人が女優関千恵子に語った説明がわかりやすい。「小説を書くとき、実家に叱られるので、本名津島修治ではいけないんで、友だちと万葉集をめくって、はじめは柿本人麻呂から柿本修治はどうかということになったが、そのうちに太宰権師(ごんのそち)大伴の何とかという人が、酒の歌を詠っていたので、酒が好きだから、これがいいというわけで、太宰。修治は、どちらもおさめるで、二つはいらないというので太宰治としたんです」「津軽」では最後に育ての親のたけとの感動的な再会がある。だが相馬正一によれば実際には、このとき太宰は旧知の住職と一緒で、たけの横で、もっぱら住職との思い出話に花を咲かせていたのだという。だから、あの「津軽」は太宰の創作である。好意的な批評家は、太宰の筆力だとか、目の前の出来事ではなく作者の感じた真実の世界を書きつづったものだという表現をするが、簡単にいってしまえばフィクションなのだ。「たづねびと」戦争末期に、空襲の東京をのがれた太宰が、疎開先の甲府でも空襲にあって焼け出され、妻子と共にほうほうのていで故郷の津軽に向かった列車の中での体験ということになっている。「お嬢さん、あの時は、たすかりました。あの時の乞食は私です」という呼びかけではじまる。5歳の娘と2歳の息子を連れての上野から津軽までの長旅は大変だった。まず、乳の出なくなった妻に代わって、車中で近くにいた子持ちのおかみさんが下の子に乳を飲ませてくれる。じきに、持参していたおにぎりも蒸しパンもいたみ食べ物がなくなる。そこに、桃とトマトの入った籠を持った別のおかみさんが現れ、隣にすわったおかみさんから桃とトマトをめぐんでもらう。ほっとしたのもつかの間、仙台に近づき、今度下の子は腹をすかせて餓死しそうになる。いよいよ下の子がむずかり出して、思わず「蒸しパンでもあるといいんだがなあ」とつぶやくと、頭の上から急に、「蒸しパンなら、あの、わたくし、...」という声がして、後ろに立っていた若い女性が網棚から鞄をおろして、中から蒸しパンの包みを取り出す。さらに、これはお赤飯です。それから...これは卵です」と次々に包みが重ねられる。仙台に着いて、その女性は「お嬢ちゃん、さようなら」と言って、窓から降りていった。私も妻も一言も礼を言うひまがなかった。そう語った後で著者は最後に次のようにつけ加える。 そのひとに、その女のひとに、私は逢いたいのです。 逢って、私は言いたいのです。一種のにくしみを含めて言いたいのです。 お嬢さん。あの時は、たすかりました。あの時の乞食は、私です」と。もっとも、桃とトマトをくれる際に「人道」とまで口走って私を閉口させた2番目のおかみさんの場面もあるから、仙台で降りた非の打ち所もないスマートな娘さんのほどこしに憎しみを感じたのだろうか。だが、これもたぶん創作であろう。混んで座るところがなく立ち続けての子連れの長旅で、人の情けにふれたことがあったかもしれないが食べ物をめぐってそんなに多くの親切はなかったろう。だいいち、彼の乗った列車は奥羽線なので、仙台は通らないのだ。>妻の実家の甲府で焼け出されたので>太宰は妻子を連れて津軽の金木に向かった。>奥羽線で新庄をすぎるとのんびりした旅になったhttp://www.mellow-club.org/cgibin/free_bbs/wforum.cgi?no=15497&reno=15478&oya=15181&mode=msgviewあやうくまた太宰にだまされそうになった。
> 「小説を書くとき、実家に叱られるので、本名津島修治ではいけないんで、友だちと万葉集をめくって、はじめは柿本人麻呂から柿本修治はどうかということになったが、そのうちに太宰権師(ごんのそち)大伴の何とかという人が、酒の歌を詠っていたので、酒が好きだから、これがいいというわけで、太宰。修治は、どちらもおさめるで、二つはいらないというので太宰治としたんです」大伴旅人の歌 験(しるし)なき物を思はずは一坏(ひとつき)の濁れる酒を飲むべくあるらし 古(いにしへ)の七(なな)の賢(さか)しき人たちも欲(ほ)りせし物は酒にしあるらし 中々に人とあらずは酒壺(さかつほ)になりてしかも酒に染(し)みなむこの大伴旅人の子が大伴家持ですね。