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[No.15805] 藤子不二雄Aの人生 投稿者:男爵  投稿日:2010/09/25(Sat) 07:12
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藤子不二雄Aの人生

藤子不二雄Aの本  講談社
(AはマルAだが文字がJISにない)

昭和二十九年六月に二十歳で高岡から
漫画家をめざして上京し
幸運なデビューをした藤子不二雄は
その年の大晦日に故郷へ帰ったとき
連載六本と別冊一本をかかえていた。
疲れたのだろう、高岡に帰ると全く描けなくなった。

二人(藤子不二雄は藤本弘と安孫子素雄の共作ペンネーム)とも描けない状態のところに
「ゲンコウ シキュウ オクレタシ」という電報が届く。
そのうち「ゲンコウ オクルニ オヨバズ」となり、それっきりとなった。
連載のうち二本はなんとか間に合わせたが、あとはすべてオトシてしまい
二月になって上京して雑誌社に頼んでも相手にされなかった。
残った二本の連載を細々と続けているうち、半年もたって
ぼつぼつ注文が入るようになった。

次のピンチは今から十六年前(1986)にワイフが脳内出血で倒れたときだった。
それまで元気だったワイフが大晦日の朝、突然バタッーと倒れた。
救急車で新宿の病院に入院、幸運だったのは大晦日なのに脳外科の医師がいたことだった。
一週間たっても意識不明、半月後にようやく救急治療室を出て一般の病室に戻ったが、左半身不随で失語症になった(珍しいケースで、言語中枢が右脳にあった)。
リハビリの結果、左手は動かないが、右手だけで料理もできるし、会話もできるようになった。

ワイフが倒れて二年後、四十年以上続いてきた藤本弘と別れて独立することになる。
二人の合作は「オバケのQ太郎」が最後で
「ドラえもん」や「パーマン」は藤本弘
「忍者ハットリくん」や「怪物くん」は安孫子素雄
長い間それで続けてきたが、五十歳をすぎたころからお互いの作風、画風が顕著にわかれるようになってきた。
お互い漫画家としてそろそろ打ち上げに近づいてきているし、ここらで二人別々になって好きなようにしようじゃないかということになった。

昭和六十三年一月二十五日、全日空ホテルで藤子・F・不二雄と藤子不二雄Aの独立記念パーティを行って二人は別れた。

独立記念に「週刊少年マガジン」に連載した漫画「少年時代」の映画を制作した。
漫画「少年時代」は芥川賞作家柏原兵三の長編小説「長い道」が原作で、戦時中富山の農村に疎開した東京の少年と地元の級長との奇妙な愛憎の物語である。

人生いいことばかりつづくことはないし、悪いことばかりつづくものでもない。
悪いことがあったら、それはいいことが起こる前ぶれだと思えばいい。


[No.15806] 休感日をつくろう 投稿者:男爵  投稿日:2010/09/25(Sat) 07:17
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休感日をつくろう

肩こりになやまされる著者は
肩こりの原因は肉体的な疲労からくるものではなく
神経的な疲れからくるものらしいと気がつく。
肉体的な疲労からくる肩こりは、風呂にでもユックリつかれば簡単にとれてしまうが
神経的な疲れからくる肩こりは粘着的にこびりついてなかなかとれない。

そんなときに休感日をつくるのだ。
休感日には、なーんにもしない。なーんにも考えない。
その日は、朝から、なーんにもしない、なーんにも考えないときめるのだ。
もちろんいっさいのスケデュールはたてない。
朝起きたら、いきあたりばったり、気の向くまま.....という感じですごすのだ。
できることなら休感日は突発的につくることが望ましい。
(今度の日曜日を休感日になどと予定をたてると、それはスケデュールに組み込まれ、本当の意味の休感日にはならない)

サラリーマンなら家でゴロゴロしていると家族が心配するから
会社へ出勤するように、いつもと同じ時刻に家を出て、会社とまったく別方に行ったほうがいい。
   以上は体験から「休感日」を提案し実行する著者の話でした。これは役に立ちそう。

氷見のお寺の息子が父の急死のため高岡に引越しして、小学校の同じクラスの藤本弘と一ヶ月だけ一緒だったが、また転校した著者は、しかし藤本との友情を一生続けることになる。
高校を卒業して叔父のコネで入った新聞社、楽しくて仕方がないのに、藤本から一緒に漫画家になろうと誘われ退職し、二年後には上京してしまう。
怒った伯父はまもなく社長になったが、二年後に親会社の社長と意見が合わず新聞社をやめてしまう。
あのまま新聞社にいたら、元社長のおいは居心地がよくなかったであろう。
新聞社をやめて漫画家になれたことを藤本に感謝する著者。

藤本は早寝早起き、仕事の予定もきちんとたてた。
著者は気分しだいで、気がのると机に向かいそのまま夜中まで仕事するが、気が向かないと日中寝ていたり外に遊びに出たりする。

藤本は人に会うのが好きでない。
自分がえらんだ相手とは最小限つきあうが、それ以外の人とつき合うのは避けた。
若い時から自分の世界をはっきり持っていたので、ヘンな相手とつきあってそこへ乱入されるのをいやがった。
トキワ荘に若い漫画家が多く住んでいるというので、漫画家志望の少年や新人漫画家たちが訪ねてきたが、藤本はほとんど会わない。会うのは安孫子のほうで、そのため藤子不二雄は二人というが、ほんとは一人じゃないかと言われたこともある。


[No.15807] 藤子不二雄Aの人生、トキワ荘のこと 投稿者:男爵  投稿日:2010/09/25(Sat) 07:31
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いつまでも児童漫画を描き続けた藤本は
人間として漫画家として純粋無垢の人生を送ってきたたまものであった。

ところが、著者は途中から別の道を突き進んだ。
年をとるにつれ次第に児童漫画を描くのが苦痛になっていった。
人間が年をとるにつれわきあがるいろんなことに対する欲望に興味がわいてきたのだ。
「ビッグコミック」に「黒イせぇるすまん」を描いたのがきっかけだった。

それまで愉快な少年漫画ばかり描いてきた著者が、人間のもつマイナーな要望を描くことがおもしろくなってしまったのだ。
児童漫画からだんだん青年コミック、成人コミックのほうへ移行していった。
スタートはいっしょだった二人の路線がはっきりわかれてきた。
こうして五十三歳のとき、四十年以上続けてきたコンビを解消した。

昭和六十三年一月、全日空ホテルで二人の独立記念パーティをした。
漫才のコンビでも別れて、一方がスターになって有名になるが、残ったほうは消えていくというパターンの再現になったら大変とがんばった。
著者は映画「少年時代」の制作や「笑ゥせぇるすまん」のアニメ化もやった。
昭和六十四(1989)年一月、昭和天皇が亡くなり、平成元年となった。
この年の二月九日に手塚治虫が亡くなった。

平成八年、著者と妻はドイツのヴュルツブルクでの世界失語症国際シンポジウムに参加し帰国したら、藤本が自宅で意識不明となり入院したことを知る。
九月二十二日、三年前に亡くなった園山俊二の長男の結婚式の次の日、藤本の死の知らせが届いた。

高岡から氷見にいく電車には、藤子不二雄Aの忍者ハットリくんが描かれている。
寺田ヒロオのトキワ荘の思い出、藤子不二雄Aの書いたトキワ荘、石ノ森章太郎の書いたトキワ荘の回想録などを合わせると、当時の若い漫画家たちの涙と夢の生活が浮かんでくる。