日本人はいつから白菜を食べるようになったのか。 ものの本には、白菜が日本に導入されたのは明治8(1875)年とされている。 しかし、もっと昔から日本人は白菜を知っていたのではないか 少なくとも江戸時代に、白菜は清国や朝鮮半島で栽培されていたのだから、当時の日本人は知っていたのではないか。 そう著者は考えた。
これに対して、日本人は白菜を取り入れたかったのだが、何か障害があって結局白菜の輸入が遅れたのだという説がある。 たとえば木綿栽培は関ヶ原の合戦より少し前に、朝鮮半島や中国大陸から伝来してきたのだが それまで朝鮮半島の人びとは「日本人に木綿のタネを渡さないよう厳重な警戒をしていた」という。木綿は日本向けの輸出商品として重要だったから。 実は、朝鮮半島の人びとが木綿のタネを中国から持ってきたときも、中国の役人の監視の目をぬすんでこっそり持ち帰ったのである。 それと同じように、明治までなかなか白菜の種が日本に入ってくるのが困難な事情があったのかもしれない。
さて このあとは途中は省略して結論だけ書いてしまうと 明治に入ってきた白菜だったが、まず植えてみると清国で見たような立派な結球はできないし、タネをとっても、そのタネから白菜はならなかった。 植えても植えても日本では白菜はならなかった。 だが、関係者は努力してとうとう立派な白菜とそのタネを得ることに成功する。
白菜の栽培には肥料をたっぷりやらないといけないということがわかった。 さらに 白菜は花を見ればわかるように、ダイコン、コマツナ、キャベツ、アブラナ、カラシナなどとともに十字花科植物の仲間なので、白菜の花はそれらの作物の花粉との交配で白菜のタネが得られないということがわかってから、白菜を離島で育てたり、網で囲って栽培した結果、白菜のタネがとれるようになった。
ソバもダッタンソバのような特殊なタネを得た人が畑に栽培すると、近くにある普通のソバの花粉と交配が起こり、ダッタンソバのタネが得られないということを、本で読んだことがある。
つまり 豊臣秀吉の時代にも、武士たちが白菜を見て日本にも持ち込んだであろうが その白菜を植えても数年のうちに、日本に昔からあったアブラナや漬け菜やカブなどと自然交配が生じて、純粋な白菜のタネがとれなくなり消滅した可能性が高い。 江戸時代に長崎でも清国との貿易はあったし、対馬藩を通じて朝鮮半島からの白菜の伝来もあったが、それらの白菜を日本に植えても、アブラナやカブとの自然交配で白菜は育たなかったのではないか、とこの著者は推察する。
この本では最後に生物の種の定義にふれている。 そういう説明だと、なるほどと納得するのである。 北村四郎ほか編の「牧野・新日本植物図鑑」(昭和36年発行)には アブラナ・カブ・スグキナ・ハクサイは学名が同じで、これらの植物は同じ種に属することがわかる。
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