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[No.15887] 吉川潮:流行歌 西條八十物語 投稿者:男爵  投稿日:2010/10/09(Sat) 06:10
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吉川潮:流行歌(はやりうた) 西條八十物語

著者の父は岡安喜三四郎で、西條八十の妻晴子の師匠である。
したがって、西條八十身内の側から見た詩人の生涯と功績をまとめたものである。

西條八十は偉大な詩人でありフランス文学者で、また作詞家でもあった。
音楽家の著作権法を整備して、彼らの生活を支えることに貢献した。


[No.15907] Re: 吉川潮:流行歌 西條八十物語 投稿者:男爵  投稿日:2010/10/11(Mon) 21:34
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> 吉川潮:流行歌(はやりうた) 西條八十物語
>
> 著者の父は岡安喜三四郎で、西條八十の妻晴子の師匠である。

正確に書けば
岡安喜三四郎は長唄三味線の師匠で、西條八十の妻晴子はその弟子である。

彼の東京の家が戦災で焼けたので、復員後に下館の妻の実家に住み、土地の芸者や娘たちに三味線を教えていた。
西條も戦争中に下館に疎開していたので、岡安喜三四郎のことを知った妻晴子が久しぶりにお稽古をしたいと弟子入りしたのであった。
こういう縁で、西條は頼まれて岡安喜三四郎の長女と長男の名付け親となった。

西條八十は高尚な詩も書いたが大衆の心に訴える流行歌も書いた。
西條は、詩が高尚で歌謡曲が低級だなどとは考えていなかった。
彼の弟子にはサトウハチロー、佐伯孝夫、門田ゆたか、丘灯至夫などがいる。


[No.15908] Re: 吉川潮:流行歌 西條八十物語 投稿者:   投稿日:2010/10/11(Mon) 23:14
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 男爵さん。まいど。

> > 吉川潮:流行歌(はやりうた) 西條八十物語
> >
> > 著者の父は岡安喜三四郎で、西條八十の妻晴子の師匠である。

> 西條八十は高尚な詩も書いたが大衆の心に訴える流行歌も書いた。
> 西條は、詩が高尚で歌謡曲が低級だなどとは考えていなかった。

> 彼の弟子にはサトウハチロー、佐伯孝夫、門田ゆたか、丘灯至夫などがいる。

 そういえば、私どもの年配の人が、「詩が奇麗」という唄は、
この辺りの方の、唄が多いですねー。
 聴いていて、疲れないそうです。

 歳の所為かもしれないがーー。

                         Toshichan in Kyouto-fu

               


[No.15910] Re: 吉川潮:流行歌 西條八十物語 投稿者:男爵  投稿日:2010/10/12(Tue) 06:49
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Toshichan  ありがとうございます

> 西條は、詩が高尚で歌謡曲が低級だなどとは考えていなかった。
>
> > 彼の弟子にはサトウハチロー、佐伯孝夫、門田ゆたか、丘灯至夫などがいる。
>
>  そういえば、私どもの年配の人が、「詩が奇麗」という唄は、
> この辺りの方の、唄が多いですねー。
>  聴いていて、疲れないそうです。

よく考えて作っているから
作詞として完成度が高いと思います。


[No.15912] Re: 吉川潮:流行歌 西條八十物語 投稿者:男爵  投稿日:2010/10/12(Tue) 10:29
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> 吉川潮:流行歌(はやりうた) 西條八十物語

西條八十が昭和3年に、童謡雑誌「コドモノクニ」から
正月にふさわしい子どもの歌を頼まれて
「毬と殿さま」を書いた。
出だしを「てんてんてまり」としたら
中山晋平が「それでは調子がよくないので、てんてんてんまりとしたい」と主張した。
また、垣根を越えての後の「路地抜けて」を「屋根越えて」のほうが調子がよくなるといってきかない。
さすがに八十も反論した。
「昔の手毬は今のゴム毬みたいに弾みませんから、垣根は越えても屋根は越えません。路地抜けてのほうが理に適っています」
「いや、たとえそうであっても、『垣根を越えて屋根越えて』としたほうが調子よくて歌いやすいのです」
作曲者にそう主張されては変えざるをえない。

「鞠と殿さま」
 てんてんてんまり てん手鞠
 てんてん手鞠の 手がそれて
 どこから どこまで飛んでった
 垣根をこえて 屋根こえて
 おもての通りへとんでった とんでった

この曲がヒットしたものだから、さすが中山晋平はヒット曲を作る名人だと八十も感心した。
八十は弟子の佐伯と門田にこう言った。
「こんどの童謡では、晋平さんから大事なことを学んだよ。それは、歌詞のつじつまが合わなくとも、曲に乗るような歌詞ならば、結果的には良い歌になるということだ」
「それは歌いやすさを最優先するということでしょうか」
「まあ、そうとも言えるだろうね。僕が中学時代、雨情さんの詩集を読んだ時も同じようなことを感じた。詩の重心を言葉の響きに置いて、読んだ時の調子を良くするためには詩の内容さえも犠牲にしてしまうんだ。雨情さんにはその大胆さがあったから、あれほどの名作童謡が書けたのだろう。大衆歌も同じことだ」
 この教訓は後年、二人が流行歌の作詞をする上で大いに役立つことになる。

野口雨情でさえも、中山晋平から注文され、詩を変えてしまう。そういうことが何度かあったという。わがままともいえる中山晋平の注文、しかし、できた歌がみなヒットしたから、結果良ければすべて良しとなってしまった。

マンガも写実的なマンガもあるが、そのままではなく誇張したり省略したりして
読者に訴えやすいメッセージを絵で伝えるものである。
時には論理がとんでしまうマンガもある。


[No.15913] Re: 吉川潮:流行歌 西條八十物語 投稿者:男爵  投稿日:2010/10/12(Tue) 10:55
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> > 吉川潮:流行歌(はやりうた) 西條八十物語

西條八十は映画「愛染かつらが」の主題曲を、作家川口の意志だからといって
どうしても西條八十につくってもらいたいと軽井沢まで頼みに来る。
それも明日までにというから大変。
ともかく食事をしようということになり
軽井沢まで来たコロンビアのディレクターの山内と、鶏肉や山菜を焼く料理を食べた。
酒を飲んだのがまずかった。西條が気がついたのは朝だった。
山内に詩を渡すまでに2時間もない。

そこで苦肉の策を思いついた。
佐藤惣之助の作詞法である。
歌詞の特徴はあくまでも自由闊達、内容に細かい神経をつかわず、ナンセンスと思われることでも勢いで書き抜いてしまう。
たとえば「青い背広」には、「紅い椿で 瞳もぬれる」とか、「涙ぐみつつ 朗かに唄う 愛と恋との 一夜の哀歌」なとどいう意味不明の歌詞もある。
曲を付けた古賀が「作曲しながら珍妙な歌だと思いましたよ」と言っていたが、それでもヒットするのだから、大衆の心を捉える魅力があるのだろう。
「旅の夜風」
 花も嵐も 踏み越えて 
 行くが男の 生きる途
 泣いてくれるな ほろほろ鳥よ
 月の比叡を 独り行く
  ほろほろ鳥は、高野山に因んだ琵琶歌「石童丸」に「ほろほろと鳴く山鳥の声聞けば、父かとぞおもう母かとぞおもう」という和歌があったのを思い出した。
    この山鳥の歌は、中学校唱歌で行基作とされていた。

「青い山脈」の歌詞で「若く明るい歌声に 雪崩は消える 花も咲く」という一節がある。
これはナンセンスだという人もいるが、歌う人はそんなことを気にしていないようだ。
西條は「軍国主義は雪崩のように消えた」という意味をこめて、この作詞を作ったという。
「青い山脈」の作者石坂洋次郎は小説「若い人」で軍部からにらまれ、戦後にやっとのびのびと小説を書けるようになる。
若い人の舞台は函館になっているが、本当は石坂は自分が教師をした横手の女学校を舞台にしたかったのだが、地元に迷惑がかかることをおそれて小説の舞台を横手にしなかったと後で述べている。
西條にしても、自分の作詞をしめつけていた軍部が消えてしまったことを喜んでいたのだろう。