さいきん日本語のうまい外人が増え、いささか慌てふためいています。
テレビなどでもよくお目にかかるロバート・キャンベルさんもそのひとりで、あるところで書いたエッセーのなかで幸田露伴の『努力論』を紹介しています。大体あっしは露伴などは敬して遠ざけているのに、この仁はわざわざ自分から近づいています。ま、それだけでもオドロキですが。
だいたい、東大で日本近世史などを講じる大先生と自分を比較する方がおこがましいわけですが、露伴は同書中で仕合せになる方法としてこんなことを述べているらしい。つまり、幸福三説と云う。
まず惜福、分福、植福の三つを考え、そのうちの分福を最上とする。簡単に言えば、すこし福を授かったら直ちにその福を他人に分かち与える。そうすれば、与えれられたほうもかならず、その福に報いる筈だというもの。
使用人と雇い主で考えても、かならず、分かち与えた福が雇い主のところに戻って来るのだ、と。読後キャンベル氏はこれをいかにも日本人らしい発想だと思ったそうです。
ところで、きょうもテレビである日本人のゲストが立派な大木を前にこんなことを云っていました。「なんか神々しい感じ。立ち寄りがたいですね。」それをいうなら、近づきがたいのほうがモアベターなような気がしますが…。(^_-)-☆
もっと適切な表現があると思います。そこで、脇に折角日本語で飯を食ってるアナウンサーが附いているんだから「それは失礼ですが、こういったほうがいいんじゃありませんか。」などとアドバイスをしたらどうでしょうか。
ガイジンがますます日本語使いの名人になって、日本人が相対的に日本語使いの落ちこぼれになって行くのは、見ていて何とも情けない思いがします。
あっしなど、もう遠慮してる場合ではないと思うのですが。
|