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[No.16074] 「ふろしき」を読む日韓文化 投稿者:男爵  投稿日:2010/11/10(Wed) 08:14
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李御寧:「ふろしき」を読む日韓文化  学生社  (2004)

著者はソウル大学卒、文学博士、梨花女子大学名誉教授で
日本語の著書
 「縮み」志向の日本人
 蛙はなぜ古池に飛びこんだのか
があるように、日本語が驚くほど上手である。

韓国には日本のふろしきのようなポジャギがある。
角に紐がつけられているポジャギはしばるときに便利で楽である。

ふろしきやポジャギは畳めば小さくなるのに対して
西洋の鞄は形が変わらない。だからスペースをとられる(壊れやすい物など入れるのには便利)。

「ポジャギ」は赤ん坊の「おくるみ」を示す漢字の褓(むつき)からきた。
「むつき」と「おくるみ」が、ふろしき文化の原風景として浮かび上がってくるだろう。

日本や韓国の母親は、「ふろしき」のように「おくるみ」を敷いて床をつくり、それを包んで「ねんねこ」にした。
それとは対照的に西洋の母は、「揺りかご」の中に赤ん坊を入れる。包むのではなく、鞄の中に入れるように入れる。
運び歩くときにも、背負うよりは乳母車に入れて押す。
 戦後に来日したヨーロッパ人の中には、赤ちゃんをおんぶしている日本の母親の姿に魅了され、イギリスではお馴染みの乳母車がいかに不自然なものに見えたかを本に書いているピーター・ミルワード氏もいる。
 アメリカでは日本の十倍の児童虐待が行われているのは、ひとつには母と子のスキンシップの不足ではないかと、著者は指摘する。母におんぶされ育つ日韓の子どもに対して、西洋では囲いの中で独り離れて天井を見ながら寝る子ども、夜も暗い子ども部屋で寝るのである。母と子は、西洋では、早すぎるくらい早くから分離される。日韓はそうでない。

床に敷いた「おくるみ」の空間は 壁によってはっきりと分割されている「揺りかご」とは違う。
その壁は薄く軟らかい。またその境界はあいまいである。
ここから話は住まいの空間に及ぶ。
屏風も部屋を間仕切るのに便利で、畳むとすみに置くこともできる。
西洋人は個室が好きだから、とにかく壁を作って、部屋をつくりたがる。
硬直性そのものの西洋の住居、柔軟性にとんだ日韓の屏風文化
こんなところが、この本の内容でしょうか。

こんど韓国に行ったら、ポジャギを買ってこようか。


[No.16086] Re: 「ふろしき」を読む日韓文化 投稿者:男爵  投稿日:2010/11/11(Thu) 07:34
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> 李御寧:「ふろしき」を読む日韓文化  学生社  (2004)

エレベータは一方通行
エレベータはラテン語から由来の言葉で、もとの意味は「軽くする、挙げる」である。
もともとは、地底に落ちた人を引き上げる救助者を意味した(ペルーの鉱山事故)。
それから、英語のエレベートは上に上げるという動詞に使われている。
このままの意味なら、エレベータは上に上がったり下がったりするのに、その言葉は「上がる」という観念だけで「降りる」という意味を全然含んではいない。
フランス語のアサンスールも上に昇るという動詞からきたものである。
これにくらべて、明治23年浅草凌雲閣に設置した日本最初のエレベータは、訳語は英語と違い完全なものであった。
すなわち「昇る」と「降りる」という相反する概念を同時に生かし「昇降機」といったのだから。

二つの対立したものがあれば、それを同時に一つの言葉に包んでしまう融通性のある日本語に対して
西洋の場合は、対立する二つのうちの一つを選択し他のものを排除してしまう。
漢字文化圏では「出入口」と呼んでいるものを、西洋人は「出口」EXITと「入口」ENTRANCEに分けて呼ばないとだめなのだ。
(現実に西洋のホテルの非常口のドアは外側にだけ開くから出る機能しかない)
(ロンドンやパリの地下鉄では人の流れは一方通行になっていて、日本のように気がついて逆戻りすることのできる構造にはなっていない。あれは不便だと思う)

ウォークマンという製品はテープレコーダから録音装置を取り除いて、逆に再生ヘッドとかステレオ・ヘッドフォンを取り付けたものだ。
ウォークマンが意味するものは、その製品の機能というよりも、いかに既存の製品を脱構築していったかにある。
魚を入れる「びく」を花をいける茶室の道具に取り入れた千利休のように
韓国人も物の脱構築には飛び抜けた才能を発揮している。
畳の寸法は戦時に矢を防ぐバリケードに使えるようにつくられたといわているが、
韓国の祭壇(ソナンダン)の石も和戦両用の融通性をきかしたものである。
平和の時は祈りの祭具として積まれ、戦いの時は投石の弾薬庫の役割をする。

「僕はウナギだ」
外国人のこまる日本語、この場合日本語講師はどう教えているだろうか。
さて、こういう表現には韓国人は困らない。理解できるのである。
韓国ならさしずめ「僕はコリコムタン(牛の尻尾)だ」と言うだろう。

カササギの餌
日本でもそうだが、韓国では柿の木の柿をとるときは、必ず一つ二つは、そのまま木の上に残しておく習わしをもってきた。
彼らがそれを「カササギの餌」と呼んでいたことからもわかるように、貧困の中でも、空飛ぶ鳥ですら、いっしょに暮らしていこうとした、生き物に対するゆとりがあったからである。
(カササギが最後の柿を食べると、どこかに飛んでいって糞をする。そこから新しい柿の芽が出て柿の木に成長する。生物学的には合理的な行為である)(なさけは人のためならず)