野見山暁治と窪島誠一郎との対談になっている。
兵隊に行ったが病気で郷里に帰っていた野見山は、終戦になったから助かってまた絵が描けるようになった。 野見山は戦争について賛成とか反対とかそういうことはなかったという。 野見山は、日本は戦争をしなければならないとか、絶対に戦争をしてはならないとか、そういう思想としては持ったことがないのだけれども、戦争には先天的に嫌悪感があった。
NHKが「日曜美術館」という番組で、戦没画学生の家を訪ねて、絵を掘り起こす特集をした。 そのときの四人のゲストの中に野見山がいた。彼だけは、戦没画学生の学友だったから友人の思い出話を語ることができた。 この放送がもとになって、野見山たちは一年かがりで、全国を回って画学生たちの絵を集めて「祈りの画集」ができあがった。
窪島は水上勉の子で、二歳の時から養父母に育てられた。 居酒屋経営をして成功し、画廊を開く。 好きな絵は売れないので、それならと信濃デッサン館をつくる。 一般に知られていない、22歳の若さで夭折した村山槐多を発掘した。
窪島は槐多忌で野見山と出会い それから戦没画学生の作品収集と展示をする無言館建設へとつながる。 芸大教授の野見山のあとおしで、窪島は若さでもって無言館建設にこぎつけた。
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