メロウサロン 
[新規順タイトル表示] [ツリー表示] [新着順記事] [ワード検索] [過去ログ] [管理用]

[No.15639] Re: 山崎朋子 アジア女性交流史 投稿者:   投稿日:2010/08/18(Wed) 20:35
[関連記事

男爵さん 今晩は

鳥居きみ子のご主人の鳥居龍蔵の足跡に出会ったことがあります。
中国西南部の貴陽から昆明に抜ける街道沿いの安順というところの近くに、
道の両脇に崖が迫ってくるところがあります、、
崖と言っても1000m近くあるのではないでしょうか、
その崖の中腹に写真のような奇怪な文字が刻まれています。
鳥居龍蔵達によって世に知らしめられた貴重な文化財のようです。
しかし、凄いところです。
唐沢から奥穂岳へ登るような道を登らなければなりません。

あれ、此処は写真が投稿できないのですね。
そしたら、もしご興味がおありであれば、
ちょっと冗長ですが、下記の真ん中辺りをご覧下さい。

http://www11.tok2.com/home/awa/keirin/kiyou.htm

安房守






> 河原操子(みさこ) 後に実業家一宮鈴太郎の妻
> 清国の女子教育に従事したいとの希望があり
> 実践女学校を作った下田歌子に頼んで、中国大同学校の教師となる。
> (1900−1902)
> その後上海の務本女学堂の日本人教師(1903)
> そして
> 蒙古のハルチン王府に創立される女学校の教育顧問となる(1903.12−1906.1)。
> 後を鳥居きみ子に頼み、自分は優秀な教え子3人を日本に留学させるため
> 同行して帰国。
> 日露戦争の時、横川省三、沖禎介の世話をする。二人を宮廷にかくまう。(1904.2.28)
> 日露戦争後、宮内省から勲六等を受けた。
>
> 鳥居きみ子(徳島生まれ) 
> 上野音楽学校在学中に鳥居龍蔵と結婚
> 鳥居龍蔵は人類学と考古学の世界的学者。
> 二人の学者が、蒙古の女学校で日本人教師を捜しているから
> 行ってくれないか頼みに来る。すぐ、行くという返事をする。
> 1906.3幼い長男を実家にあずけ、夫は後からくるため
> 単身赴任。後から来た夫と蒙古で生活しながら調査。
> 1年後に長女を産むため帰国。
> きみ子がやめた後は、操子の教え子が日本での学業を終えて
> 母校の教師になったから、きみ子は帰国できた。
> しかし、長女を産んでから再び蒙古に行き、夫のため
> 土俗学の資料収集につとめ、教え子から昔話やわらべ唄を
> 採集、その他生活習慣風俗などの調査をした。
> のちに夫の学位論文「満蒙の有史以前」と彼女の図書
> 「土俗より観たる蒙古」
> きみ子は蒙古の教育は操子のレールの上を走った。
> わずかに音楽教育は、きみ子のオリジナル。
> 鳥居龍蔵・きみ子の墓は徳島市にある。
>
> 下田歌子は美濃国岩村藩の藩士の家に生まれる。
> 1872(明治5)年、女官として宮中出仕する。
> 儒学者の祖父仕込みの学識、和歌の才能で昭憲皇太后から寵愛され「歌子」の名を賜る。
> 宮廷で和歌を教えるようになる。
> 1879(明治12)年に下田猛雄と結婚するが、5年後に夫猛雄が病死。
> 皇后の推薦で、創設された「華族女学校」の教授に迎えられた。
> 「華族女学校」は「学習院」に統合された。
>
> 横川省三については後ほど紹介の予定。
>
> 山崎朋子 アジア女性交流史、筑摩書房
> この本には他に
>  秋瑾と下田歌子 亡命者の心に咲いた一輪の花
>  相馬黒光とアジアの人びと 多彩にして矛盾的な関係
>  金田一京助と知里幸恵 「アイヌ神謡集」の光と影
> など多くの女性をめぐる交流史が扱われている。


- 関連一覧ツリー (★ をクリックするとツリー全体を一括表示します)

- 返信フォーム (この記事に返信する場合は下記フォームから投稿して下さい)
おなまえ※必須
文字色
書込暗証番号(必須 半角で7080を入力)
Eメール(必須 非公開を推奨) 公開   非公開
タイトル sage
URL
メッセージ  手動改行 強制改行 図表モード
暗証キー (英数字で8文字以内)
プレビュー   

- 以下のフォームから自分の投稿記事を削除することができます -
- 自分の投稿記事に返信(レス)が付いている場合は削除をご遠慮ください -

処理 記事No 暗証キー