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[No.16322] 紫式部と清少納言 投稿者:男爵  投稿日:2010/12/26(Sun) 09:21
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NHKにんげん日本史
 紫式部と清少納言
酒寄雅志監修 小西聖一著
    理論社

子どもの本です。
しかし、ちゃんと当時のことを調べてあるので
馬鹿にはできない。

「いっこく」と「師匠」の会話で成り立っている。そう、あの腹話術。

たとえば、その当時の日本全体の人口は約600万人で、平安京には15万人の人が住んでいた。
平安京に住む人たちのなかで、貴族は何人くらいいただろうか。
  なんと150人くらいだという。しかも、そのなかで富と権力をにぎり、政治を動かすことのできたのは、わずか20人ほどだった。

カタカナの成り立ち
 阿→ア
 伊→イ
 宇→ウ
 江→エ
 於→オ

ひらかなの成り立ち
 安→あ
 以→い
 宇→う
 衣→え
 於→お

  カタカナとひらかな、同じ漢字からできたのではないんですね(同じ場合もあるが)。
  「衣」から「え」ができたとは、作務衣の「衣(え)」と考えればいいが、衣装の「衣(い)」なら、これから推定して、昔の発音は東北の言葉のように複合母音だったらしい。
    ある音韻学者によると、複合母音や複合子音をもつ東北の言葉は、英語やフランス語に近い。だから、東北の言葉は国際語に近い(発音)となる。

クイズ
清少納言が枕草子のなかで、上品な食べ物としてあげているのはどれか。
 ようかん  おだんご  かき氷
正解はかき氷 冬に自然にできた氷を大切にたくわえておき(おそらく氷室に貯蔵した)、夏に取り出して食べる。高貴な人しか口にできない、珍しい食べ物だった。

一条天皇の中宮定子には兄伊周(これちか)がいた。一条天皇と定子と伊周は仲も良く、教養ある人たちなので、ここに宮仕えの清少納言が加わると、楽しい会話がはずんだであろう。
あるとき、定子は兄伊周から、何も書かれていない草紙(メモ帳)をプレゼントされる。
そこで、定子は「これになにを書こうかしら」と相談する。
清少納言は「枕がよろしゅうございましょう」と答える。おそらく「いつもそばに置いて、思いついたことをお書きになっては」という意味だと考えられる。
すると定子は「それではあなたにさしあげます」と、その草紙をゆずってくれたのである。
清少納言はその草紙に、内裏の暮らしで、自分が見たり聞いたりしたこと、体験したこと、感じたり考えたりしたことなどを、思うままに書いていった。それが枕草子である。

伊周の父道隆は関白だったが突然亡くなってしまった。
一条天皇はこのとき十六歳になっていた。
天皇は道隆のあとつぎに、その弟道兼を関白に任命した。
ところが、関白になった道兼は、このとき都で猛威をふるっていた病気のため、わずか七日後に急死してしまう。「七日関白」だった。

伊周は今度こそは自分の番だと張り切るが、強力なライバルが現れる。
それは道長だった。道長は兄道隆、道兼がいたから自分の出番はないと思っていたかもしれないが
兄たちが死んでしまったら、自分の番だと思った。
こうして叔父道長と甥伊周との争いが繰り広げられる。

当然、中宮定子は自分の兄である伊周を用いるように天皇に頼む。
道長の方は、一条天皇の母親である姉詮子(せんし)がいる。詮子は道長を大変かわいがっていた。
天皇にしてみれば、妻の兄の伊周を選ぶか、母親の弟道長を選ぶか迷ってしまう。
結局、母親に押しきられた形で、道長をトップの座に任命する。

伊周と道長は大臣公卿のいならぶ前で、つかみあわんばかりのはげしい争いをする。
やがて、伊周にはよくないうわさが流れる。道長を応援した詮子が病気になったのは、伊周がのろいをかけたためである。その証拠も見つかった。道長にものろいをかけたともいわれる。もしかすると、うわさは伊周を不利な状態に追い込むため道長が流したのかもしれない。

そこへ、伊周と花山法皇(一条天皇の前の天皇)が、恋人をめぐってあらそいを起し、伊周とその弟の隆家が従者に命じて、法王を弓で射てしまったのだ。これは言い逃れができない。
この事件によって、伊周は罪人として都から追放されてしまった。伊周は焦らなくてもよかったのに。若いから冷静な行動をとることができなかったのだろうか。

道長はもうライバルはいない。同時に清少納言のあるじ定子はうしろだてを失ってしまった。
道長は自分の娘を、一条天皇のきさきとしておくりこむ。
これが後に紫式部の仕えることになる彰子である。
そして、中宮定子がいるのに、中宮彰子をつくってしまう。その結果、定子は皇后になった。
皇后と中宮という、正式のきさきを同時にたてるということは前代未聞であった。

定子の産んだ皇子がいるのに、彰子もあとから皇子を産むと
ますます道長のいやがらせが続き、定子は三度目の出産の直後、二十五歳の若さで亡くなってしまう。
 他の本には、こういう父親の強引な行いに対して、彰子は自分の産んだ皇子よりも、定子の産んだ皇子のほうを次期天皇にと言うのだが、道長の野心は彰子の子にそそがれる。その本には、定子も彰子も迷惑していた、一人ハッスルしていた道長という書き方をしている。

紫式部が源氏物語の作者であることを示す証拠がいくつか、紫式部日記に書かれてある。

一条天皇が重い病気にかかり、位を三条天皇にゆずったあと、三十二歳の若さで亡くなる。
紫式部の仕える彰子は(天皇のきさき)中宮から、(前の天皇のきさき)皇太后とよぱれるようになる。
同じ頃、紫式部は弟の惟規(これのり)にも先立たれてしまう。惟規は越後の国司の任についていた父為時のもとにおもむき、そこで亡くなったのだ。
この頃から、紫式部の消息を知る手がかりが、記録から消えていってしまう。


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