戦後彼方此方の都市でシューシャンボーイが出現したと思います。 私の住む街も、旧海軍の軍港都市でしたので米軍が進駐し多数の子供がシューシャンボーイとして一生懸命働いていました。
駅周辺、繁華街特に米軍の兵隊が集まる箇所には10数人ずつ数箇所で行っていましたが、殆どが戦災孤児のようで、長崎に投下された原爆で孤児になった子供達も可也居ました。余りに多くて客の奪い合いで喧嘩になったりしていました。
これ等は、朝鮮動乱が始まったS.25年〜動乱が終わった後の28年頃までが一番多かったようです、朝鮮に出兵する兵士達は宵越しの金は持たないみたいな感じで有り金はたいて行く兵士も多かったようで、シューシャンボーイにも釣銭は要らないと気前良くドルで支払っていました。
当時は、ドル高(固定レートの360円)でしたので彼らはドルでの支払いを喜んで受け取っていました。
こう言った中で、S.26年に当時世界的にも有名だったと聞き及んでいますが、バイオリニストのメニューイン(又は、メニューヒン)氏が当市での公演の為お出でになられることになり、其れを知った孤児のシューシャンボーイの一人が、毎日の売り上げの中から幾ばしかの金を、前売り券を販売しているレコード店に預けてヤッとチケットを手に入れました。
この話を、当市に来て聞いたメニューイン氏は、その様な人にこそ自分の音楽を聞いてもらいたかったと感激されて、其の子に会いたいと申され、お会いになられた際に欲しいものはないかとたずね、其の子がバイオリンを欲しいと言った事から、楽器店でこうして其の子供に渡されました。
シューシャンボーイも十人十色で色んな人がいました。バイオリンを贈られた子は、その後バイオリン教室に通っていましたが、その後のことは知りません。
長文ですみません。
〜〜 昭 〜〜
|