[掲示板へもどる]
一括表示

[No.205] 戦争孤児3 投稿者:   投稿日:2010/12/14(Tue) 21:46
[関連記事

みなさん、これで戦争孤児を終わります。「またぁー」と言わずにお読みください。

父との想い出は、
「○子は字が下手なので、下手でもいいから人が読めるように、ていねいに
書きなさい」がまず浮んでくる。若い頃は教師だったと聞いた。
国から出てきて戦争のために会社勤めに変ったようだ。

そんなことで毎夜のように、筆箱を出すように言われ鉛筆を削ってくれ、カ
バンの中に明日の準備ができているかどうかをチェックしてくれた。
会社は歩いたところにあり、2人の弟や近所の子どもたち数人で隊を組むよ
うにして、父の会社のお風呂に入りにいったものだ。男の子も女の子も一緒
だったから、小学校4、5年だったか、工場の人たちが入る前の午後4時頃の
こと、海かプールで遊んでいるような騒ぎの結果は、大きな湯船のお湯があら
かたなくなってしまうのだ。そのあとのことは知る由もないが、工場の人たち
は困ったのではないか。でも怒られることもなく通った。

そんな父が入院をし、長い病院生活を送った後身罷った。昭和39年7月のこ
とだった。東京オリンピックの年かと今思う。
父の形見は病院からの手紙、何百通あるだろうか古くなってしまっているが、
今パソコンに打ち込んでいる最中なのだ。
 空襲に焼けし我が家や終戦忌
 飽食といふ字の重終戦日
 語りつぐすべを探らん終戦日
    編み直す毛糸は父のこげ茶色
 若き日の父の匂ひの祭来る
 身ほとりに考と妣ゐて虫を聴く

などなど、早く亡くした父、母、祖母の想い出は尽きない。最近でこそ書くこ
とが少なくなったが、ことあるごとに想い出を綴った中から部分を引っ張り出
してみた。

長々と綴ってしまったが、そんなことで「私は戦争孤児の1人だと思っている
のである」


[No.206] Re: 戦争孤児3 投稿者:男爵  投稿日:2010/12/14(Tue) 21:58
[関連記事

> みなさん、これで戦争孤児を終わります。「またぁー」と言わずにお読みください。

あやさん、どうもありがとうございます。
また何か思い出したら お願いします。
とりこぼしがないように。

> そんな父が入院をし、長い病院生活を送った後身罷った。昭和39年7月のこ
> とだった。東京オリンピックの年かと今思う。

では
あやさんはお母さんと死別してから
しばらくはお父さんとは一緒だったのですね。

>そんな父が入院をし、長い病院生活を送った後身罷った。昭和39年7月のこ
とだった。東京オリンピックの年かと今思う。
> 父の形見は病院からの手紙、何百通あるだろうか古くなってしまっているが、
> 今パソコンに打ち込んでいる最中なのだ。
>  空襲に焼けし我が家や終戦忌
>  飽食といふ字の重終戦日
>  語りつぐすべを探らん終戦日
>     編み直す毛糸は父のこげ茶色
>  若き日の父の匂ひの祭来る
>  身ほとりに考と妣ゐて虫を聴く

 私ごとながら
昭和39年8月は横浜の丘の上と調布の多摩川の河原で暮らしました。
ただただ暑かったという思い出だけ。
北海道育ちの私は東京暮らしはできない、そう思ったのでした。


[No.214] Re: 戦争孤児3 投稿者:   投稿日:2010/12/15(Wed) 19:54
[関連記事

> あやさん、どうもありがとうございます。
> また何か思い出したら お願いします。
> とりこぼしがないように。

わかりました。このようでよければです。

> では
> あやさんはお母さんと死別してから
> しばらくはお父さんとは一緒だったのですね。

しばらくは一緒でした。3年か、4年くらいだったでしょうか。

>  私ごとながら
> 昭和39年8月は横浜の丘の上と調布の多摩川の河原で暮らしました。
> ただただ暑かったという思い出だけ。
> 北海道育ちの私は東京暮らしはできない、そう思ったのでした。

横浜に住まいしていたことがおありなんですね。
多摩川の河原で暮らしたとは? 掘っ立て小屋? それとも寝袋にくるまって?
それにしても、丘の上と正反対の河原で暮らしたとはいい思い出ですね。


[No.215] 調布の多摩川の河原 投稿者:男爵  投稿日:2010/12/15(Wed) 20:36
[関連記事

あやさん

> 横浜に住まいしていたことがおありなんですね。
> 多摩川の河原で暮らしたとは? 掘っ立て小屋? それとも寝袋にくるまって?
> それにしても、丘の上と正反対の河原で暮らしたとはいい思い出ですね。

こういうことです。
夏休みの実習の体験でした。
西口からのバスで丘の上にいくとある
某役所でした(いまもあるはずです)。
近くには国立大学があります。

仕事が終わると
横浜駅からきれいな東横線に乗って
武蔵小杉で乗り換えて
今度は古い南武線に乗ります。
某駅で降りて
多摩川を越えた映画の撮影所のある調布に
その役所の官舎があったのです。そこは河原で虫がいっぱいいました。寝ている私の顔の上をムカデかヤスデのような多足の虫が走り去っていきました。

多摩川を渡るには
当時は船頭さんがいました。
 矢切の渡しみたいなものです。

ずっと後から行ってみると
なんと当時はなかった私鉄の電車が川を越えて走っていました。
たまに私鉄の電車に乗って新宿駅にまで行ったことがありますが
当時と調布駅も新宿駅も、駅そのものも変わったし駅前もまったく変わってしまいました。


[No.217] Re: 戦争孤児3 投稿者:   投稿日:2010/12/15(Wed) 21:52
[関連記事

男爵さん

> > それにしても、丘の上と正反対の河原で暮らしたとはいい思い出ですね。
>
> こういうことです。
> 夏休みの実習の体験でした。
> 西口からのバスで丘の上にいくとある
> 某役所でした(いまもあるはずです)。
> 近くには国立大学があります。

なんとなくわかります。

>
> 仕事が終わると
> 横浜駅からきれいな東横線に乗って
> 武蔵小杉で乗り換えて
> 今度は古い南武線に乗ります。
> 某駅で降りて
> 多摩川を越えた映画の撮影所のある調布に
> その役所の官舎があったのです。そこは河原で虫がいっぱいいました。寝ている私の顔の上をムカデかヤスデのような多足の虫が走り去っていきました。

これまたよくわかります。
古い南武線は10代からの山行きの電車でした。
寝ている顔の上を虫が走るなんて! でも私にも経験があります。
下妻というところで、虫がはいずり回りました。頭に網を被って寝たりしました。

>
> 多摩川を渡るには
> 当時は船頭さんがいました。
>  矢切の渡しみたいなものです。

これもわかります。