みなさん、これで戦争孤児を終わります。「またぁー」と言わずにお読みください。
父との想い出は、 「○子は字が下手なので、下手でもいいから人が読めるように、ていねいに 書きなさい」がまず浮んでくる。若い頃は教師だったと聞いた。 国から出てきて戦争のために会社勤めに変ったようだ。
そんなことで毎夜のように、筆箱を出すように言われ鉛筆を削ってくれ、カ バンの中に明日の準備ができているかどうかをチェックしてくれた。 会社は歩いたところにあり、2人の弟や近所の子どもたち数人で隊を組むよ うにして、父の会社のお風呂に入りにいったものだ。男の子も女の子も一緒 だったから、小学校4、5年だったか、工場の人たちが入る前の午後4時頃の こと、海かプールで遊んでいるような騒ぎの結果は、大きな湯船のお湯があら かたなくなってしまうのだ。そのあとのことは知る由もないが、工場の人たち は困ったのではないか。でも怒られることもなく通った。
そんな父が入院をし、長い病院生活を送った後身罷った。昭和39年7月のこ とだった。東京オリンピックの年かと今思う。 父の形見は病院からの手紙、何百通あるだろうか古くなってしまっているが、 今パソコンに打ち込んでいる最中なのだ。 空襲に焼けし我が家や終戦忌 飽食といふ字の重終戦日 語りつぐすべを探らん終戦日 編み直す毛糸は父のこげ茶色 若き日の父の匂ひの祭来る 身ほとりに考と妣ゐて虫を聴く
などなど、早く亡くした父、母、祖母の想い出は尽きない。最近でこそ書くこ とが少なくなったが、ことあるごとに想い出を綴った中から部分を引っ張り出 してみた。
長々と綴ってしまったが、そんなことで「私は戦争孤児の1人だと思っている のである」
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