敗戦で元気をなくしたあっしらを奮い立たせてくれた歌といえば、やっぱり、サトウハチロー作詞で、並木路子の歌った「リンゴの唄」(1945年)でしょうね。 『赤いリンゴに くちびる寄せて』という出だしからして素晴らしい。スゴク元気の出る歌です。 当時どこへいってもこの歌が聞かれた紋でした。のど自慢でもひっぱりだこの曲でしたね。このとき、初めて万城目という姓があるのを知ったのでした。 この唄が、松竹映画「そよ風」の挿入歌というのは、最近まで知りませんでした。
コンニチハ終戦の翌年、昭和21年7月24日、復員船 リバティ型 V-040号で爪哇島から名古屋港に帰って来ました。上陸後、一晩、収容施設みたいな場所に泊まったのですが、その『赤いリンゴに くちびる寄せて』が拡声器から聞こえて来ました。”変な歌だなぁ〜・・・”と思いながら聞いてましたが。それから、焼け跡闇市の生活が始まりました。今となっては、懐かしいと言うのか、もの悲しいと言うのか、当時の想い出が蘇って来ました。 想い出を有難う御座います。
唐辛子 紋次郎さん、 BUPさん こんばんはこの歌は流行りましたね。こういう歌を書くとのできたサトウハチローはえらいものです。
男爵さん、みなさん、 > こういう歌を書くとのできた> サトウハチローはえらいものです。 ハチローは本名が佐藤八郎で、あまりにも平凡なので、片仮名にしたんでしょうね。このひとで思い出すのは、テンプラ学生で、いわいうるニセ学生。 ほんとうの学生でもないのに、芸大や東大で学生面をして、威張っていた。また、年中悪いことをしちゃあ、東京中のブタ箱巡りをやっていたようで、父親の佐藤紅禄もほとほと困りぬき、持て余していたようですね。 作家の佐藤愛子の、お兄様でもあるそうで…。
紋次郎さん 男爵さん、みなさん、リンゴの唄はよく唄いました♪中学2年生のころです。そのときの風景まで思い出します心を打たれたのは「長崎の鐘」(古関裕爾曲)の詩です長崎で被爆死した実弟を悼んで作詞したのだそうです > 作家の佐藤愛子の、お兄様でもあるそうで…。佐藤愛子といえば別当薫(慶應〜プロ野球の名選手)を思い出します(^-^)当時、阪神電車で甲南高女に通学していた彼女が電車内でよく見掛ける別当薫(甲陽中学)に一目ぼれ。いっぽう灘中生の遠藤周作が彼女に憧れていた。ずっと後年になってどこかでの対談で大笑いになっていたのを読みました さんらく亭@甲子園
紋次郎さん さんらく亭さん、みなさん、 > 心を打たれたのは「長崎の鐘」(古関裕爾曲)の詩です> 長崎で被爆死した実弟を悼んで作詞したのだそうです> > > 作家の佐藤愛子の、お兄様でもあるそうで…。佐藤愛子の「血脈」はおもしろい小説です。彼女にかかると、兄ハチローもけちょんけちょん。しかし、兄の詩の才能は評価していました。
> 『赤いリンゴに くちびる寄せて』という出だしからして素晴らしい。スゴク元気の出る歌です。ネットでヒマツブシをやってましたら、此処 ↓ にも”リンゴの唄”が出て来ました。サイパン島の怒号http://www.nsknet.or.jp/~yamabuki/taga.htmlhttp://www.rose.sannet.ne.jp/nishiha/senso/より。
唐辛子さん こんばんは> 『赤いリンゴに くちびる寄せて』という出だしからして素晴らしい。スゴク元気の出る歌です。 あの頃、朝鮮から引き揚げてかなり飢えた生活をしていました。この歌を聞くとあの赤いリンゴの甘酸っぱい思いで生唾が空腹にこたえました。小学生高学年の、もっともがっついていた時代でした。
マサちゃん、 唐辛子さん、みなさん こんにちは> あの頃、朝鮮から引き揚げてかなり飢えた生活をしていました。> この歌を聞くとあの赤いリンゴの甘酸っぱい思いで生唾が空腹にこたえました。> 小学生高学年の、もっともがっついていた時代でした。高校の恩師は大陸育ち。中国の瀋陽から引きあげてきたそうです。南満州鉄道の瀋陽から大連まできて、大連から船で帰国。 引き揚げ時期のリンゴの思い出があるそうです。リンゴは中国大陸で食べたのか、日本に帰ってきたからなのか。私のいる町にはリンゴ畑が多いですが終戦後のもののない時期に工業専門学校の生徒たちは空腹でついリンゴのお世話になったそうです。同窓会誌の思い出話は食べ物の話が多いです。もう一人の高校の恩師は、この町の工業専門学校の卒業生で、やはり空腹だった思い出を語ります。