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[No.70] 学校の畑 投稿者:男爵  投稿日:2010/12/04(Sat) 21:39
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中学生のとき
中学校には各クラスの畑がありました。
草取りとかはあまり熱心ではなかったが
大豆やジャガイモが収穫できました。
大豆は若いエダマメのときに収穫して
みんなでわけて家に持って帰って食べました。

クラスの中には農家の子弟がいて
彼らは畑仕事に慣れていて
種まきから、こやし(化学肥料ではない)の与え方まで
みんなに教えるくらいでした。

同級生の中には、いまも現役の農業家もいます。 元気に働いているようす。
風のたよりで元気なうわさを耳にします。

中学校の裏山には植林をして草刈りなども毎年したものでしたが。


[No.343] Re: 学校の畑 投稿者:   投稿日:2010/12/26(Sun) 22:16
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男爵さん、みなさん。 男爵さんと一回り違いです。

旧制中学(兵庫県立3中=芦屋中学)一年生の時は
昭和20年、敗戦寸前でした。
運動場は芋やカボチャ畑、校舎は焼夷弾で燃え 焼芋
を掘って貰って帰った憶えがあります。

6月に焼夷弾、一トン爆弾、空襲警報で帰る途中に
機銃掃射まで、遂に縁故疎開で 母子4人 ほうほうの
態で 石川県松任町へ縁故疎開。

以後戦後の暮らしです。
田舎のお百姓さんは 戦前都会生活者と生活レベルが
違い、悪い言い方ですがざまぁ見ろとの思いの人も、、
着物始め物と食糧を物々交換して貰って飢えを凌いだ
暮らしでした。
お百姓さんはお金はもう要らないと、札を積み上げて
尺祝いの時代でした。
物は食料と変え尽くし、南瓜や芋を分けてと何度頼ん
でも分けてくれず、“欲しけりゃとって帰れば、、、”と
つれない返事、背中とお腹がひっつきそうできょろ
きょろと当りを見回し、かぼちゃを盗って帰ったことも。

男爵さんとは丁度一回り年上、偉い違いの12年でした。


> 中学生のとき
> 中学校には各クラスの畑がありました。
> 草取りとかはあまり熱心ではなかったが
> 大豆やジャガイモが収穫できました。
> 大豆は若いエダマメのときに収穫して
> みんなでわけて家に持って帰って食べました。
>
> クラスの中には農家の子弟がいて
> 彼らは畑仕事に慣れていて
> 種まきから、こやし(化学肥料ではない)の与え方まで
> みんなに教えるくらいでした。
>
> 同級生の中には、いまも現役の農業家もいます。 元気に働いているようす。
> 風のたよりで元気なうわさを耳にします。
>
> 中学校の裏山には植林をして草刈りなども毎年したものでしたが。


[No.346] Re: 学校の畑 投稿者:男爵  投稿日:2010/12/27(Mon) 07:10
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オアシスさん、みなさん   こんにちは

> 機銃掃射まで、遂に縁故疎開で 母子4人 ほうほうの
> 態で 石川県松任町へ縁故疎開。

> お百姓さんはお金はもう要らないと、札を積み上げて
> 尺祝いの時代でした。
> 物は食料と変え尽くし、南瓜や芋を分けてと何度頼ん
> でも分けてくれず、“欲しけりゃとって帰れば、、、”と
> つれない返事、背中とお腹がひっつきそうできょろ
> きょろと当りを見回し、かぼちゃを盗って帰ったことも。

あの頃土地のある農民にとって
終戦後は天国みたいでしたね。

私も少しだけ畑に植える生活をしています。
自分で作った野菜は格別美味しく感じます。


[No.350] Re: 学校の畑 投稿者:   投稿日:2010/12/27(Mon) 13:04
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オアシスさん 同期の桜です

> 物は食料と変え尽くし、南瓜や芋を分けてと何度頼ん
> でも分けてくれず、“欲しけりゃとって帰れば、、、”と
> つれない返事、背中とお腹がひっつきそうできょろ
> きょろと当りを見回し、かぼちゃを盗って帰ったことも。


もうとっくに時効ですから。。。(;_;)

学校帰りに腹が減って、家へ帰っても食うものもなし、下校時にその辺の
畑に立ち入って真っ赤に熟したトマトを2、3個もぎ取って口に放り込み、
急いで走って帰宅したら口の周りに食べた跡が付いていて母親から厳しく
追求され「そんな子に育てた覚えはない!」と叱られ泣かれて、とうとう
その農家へ謝りに行かされました

思い出したくないことを65年ぶりに思い出しました(;_;)(;_;)

      さんらく亭@甲子園


[No.351] Re: 学校の畑 投稿者:男爵  投稿日:2010/12/27(Mon) 17:35
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オアシスさん さんらく亭さん

> 思い出したくないことを65年ぶりに思い出しました(;_;)(;_;)

私の勤めていた学校のことですが
終戦当時に
私の恩師がここで、学生時代を過ごしたのだそうです。

当時の思い出は、ただただ空腹であったということ。
その頃のことを卒業生たちは
りんご園のりんごをこっそりいただいたとか
夜に畑の西瓜やトウモロコシを収穫しに行ったとか
寮の内外に見かけた犬や猫が、あるとき突然いなくなったとか
いろいろ同窓会誌に書いています。
とうぜん
広い学内の土地を耕して畑にして、できるだけ作物も収穫したそうですが。

この恩師は実は
高校の時の数学の先生です。
ずっと後になって、同窓会名簿を見たら、恩師らしい名前を見つけたので
手紙を出したら、やはりそうでした。
それから、北海道の高校の校長室にその先生を訪ねて行ったことがあります。


[No.353] Re: 学校の畑 投稿者:   投稿日:2010/12/27(Mon) 21:05
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同期の桜 さんらく亭さん、いよぉ。
思い出したくない65年前を記して、(゜゜)(。。)ペコッ

> もうとっくに時効ですから。。。(;_;)

楽しいこともありましたよね。
ありとあらゆるアルバイトを生活の為にして生きてきました。
手当てが良いので、海水浴場で上がり湯の窯焚き、廃材集めて湯加減見る
時の穴から女性の全身が丸見え、相手は気付かないので楽しめました。
道路測量、県の予算獲得の為と間違えられての風呂・ご馳走の大歓待。
線路工夫でもっこ担ぎ、日当は悪かったですが、昼飯にでっかいおにぎり
が支給されました。(これらは24,5年頃の経験)

敗戦後の21年頃は1っ千万人餓死説もでて、2合1尺 米じゃなくって放出
のチーズだったり、京都に住まってた時はお茶の葉っぱの事も、、、
22年 親父が亡くなったので、福岡の伯父を頼って 引揚者住宅に住まわ
せて貰えました。引揚者で無いのに25万円で買えました。
カーキ色の復員服(どうしてか)で、今じゃ出席日数不足で卒業できない
筈が、新制高校を卒業させてくれました。
地元の大学に、入学金半年分1800円 分割で収め、後は一切払わず
卒業させてくれました。
今となっては 考えられない艱難辛苦も 懐かしく楽しい思い出です。


> 学校帰りに腹が減って、家へ帰っても食うものもなし、下校時にその辺の
> 畑に立ち入って真っ赤に熟したトマトを2、3個もぎ取って口に放り込み、
> 急いで走って帰宅したら口の周りに食べた跡が付いていて母親から厳しく
> 追求され「そんな子に育てた覚えはない!」と叱られ泣かれて、とうとう
> その農家へ謝りに行かされました
>
> 思い出したくないことを65年ぶりに思い出しました(;_;)(;_;)
>
>       さんらく亭@甲子園


[No.357] Re: 学校の畑 投稿者:   投稿日:2010/12/28(Tue) 09:16
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オアシスさん

> 地元の大学に、入学金半年分1800円 分割で収め、後は一切払わず
> 卒業させてくれました。

そういえば私も日本育英会の奨学金をいただいて親に負担を掛けなかった
のが唯一の親孝行でした。奨学金の支給日(2ヶ月に1回)には真面目に
登校して勉強しましたね(^-^)

奨学金は就職後もちろん全額お返ししましたよ
(返納しない不届きな奴が多く日本育英会は一旦解散して別の機構になった)


       さんらく亭@甲子園


[No.358] 奨学金 投稿者:男爵  投稿日:2010/12/28(Tue) 09:32
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オアシスさん、さんらく亭さん

> > 地元の大学に、入学金半年分1800円 分割で収め、後は一切払わず
> > 卒業させてくれました。

> そういえば私も日本育英会の奨学金をいただいて親に負担を掛けなかった
> のが唯一の親孝行でした。

> 奨学金は就職後もちろん全額お返ししましたよ
> (返納しない不届きな奴が多く日本育英会は一旦解散して別の機構になった)

私も日本育英会の奨学金のお世話になりました。
私の場合は教職についたため、全額返済免除となりました。

ほかにも企業から提供された資金をもとに所属学科で用意した奨学金があり
こちらのほうは就職してから毎月ですが返済しました。