> 敗戦当時は兵庫県揖保郡龍野町(現、たつの市)にある県立龍野中学校1年生でした。 > 放課後で生徒は下校中で校門前に進駐軍のGIの乗ったジープが停まっていて我々に愛想よく声を掛けました。何を言ってるのか分かりませんが親しそうな気持ちは伝わります。つい2〜3ヶ月前まで鬼畜米英撃滅とか撃ちてし止まんと叫んで憎んでいた相手とはとても信じられない印象を受けました > 生徒の誰かがギブミーチョコレート!と声をかけたら若いGIがポイ〜と抛り投げたのが(あとで知ったのですが)ハーシーの板チョコでした。別の生徒がギブミーチューインガムと言ったら抛ってきたのが(これも後で知った)リグリーのガムでした。兎に角甘いものに飢えていた我々はジープの周りを取り囲んで口々にギブミー***と叫んで大騒ぎです
そういう話を聞くたび、あっしは羨ましく思います。どういうわけか、あっしには進駐軍の思い出がひとつもありません。(-_-;) さんらく亭さんのように、GIと出会っていればもう少し、英語が上手くなっていたかも。
> 英語を勉強せんならん! と思ったキッカケがこれです(;_;) > 英語の教科書の1ページ目は This is a pen でしたがこれではアカンと、ラジオの平川唯一のカムカムエブリバディや旺文社の日米会話手帳で一生懸命に生きた英語をマスターしょうと勉強したものです > > その後はだんだん「もはや戦後ではない」といわれる頃になり甘い物も手に入るようになったら英会話の勉強も疎かになり全然進歩なく、その後60年こんにちに至ります(;_;)
ベストセラーの代名詞のような「日米会話手帳」ですが、読んだ記憶がありません。
あっしのばやい、東京から兵庫へ疎開したら、英語は純日本式の発音をする先生が担任でした。あっしは英語は一応好きな科目でしたので、チョッとがっかりしました。東京では東京外語(東京外国語大学)出の、英国式の発音のいい先生に習っていたので、あっしの英語はそこでストップしました。
その後、神戸か大阪から、磯尾先生が転任されました。この方は外国の大学(シラキュース大学?)に留学されていたので、発音も含めすべてが素晴らしかったです。後で知ったのですが、英語の参考書の著書もニ三、あったようです。
恥を晒すようですが、大分後になってからハワイ出身の鬼頭イツ子先生にも一度短期間ですが、習ったこともあります。
それでも駄目、なおも英語漂流はつづきましたが、結局諦めました。
|