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[No.6662] 戦争と終戦 投稿者:あや  投稿日:2014/08/15(Fri) 08:04
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今日は68回目の終戦記念日でしょうか。そんなこことで、古い記録が思い出され
出かける前にと、あわてて打ち込んでいます。
20時まで、障害者の解除、明日は夏祭りのビヤガーデンの売り子、こんな平和を
感謝しています。
書きなぐりで、読み返す技官もなく、間違えがあったらごめんなさい。



母の故郷の新潟で、電線に今でいうアルミ箔を細くしたような物がたくさん絡まって
いて、それを取りのぞくおとなたちと、怖いものの遠巻きにしていた子どもたち。
聞いて忘れてしまったのかどうか、あれは何だったのでしょうか。たしか飛行機から
落された物でした。

その後ラジオの前に集まったと思うものの定かではありませんが、戦争が終わったの
だと言われても、私には何だかわからなかったというのが実感でした。
もうあれから46回目の8月15日。

私にとっての戦争とは、父が母が、祖母が亡くなったということです。直接的には
関係ありませんが、あの戦争がなかったらと思わずにはいられません。
父母も、私たち姉弟も犠牲者、それに3人の孫を育てた祖母もです。

空襲の日、池上の山へ逃げて、遠くが燃える光景を、寒さにではなく震えながら見た
ことや、明け方たどり着いた家がごうごうと赤い火柱となっていて、くずれる瞬間
だったことは、今でははっきりと覚えています。

終戦の翌年亡くなったは母は、おいしい物が好きなぜいたくな人で、白いごはんと
お刺身がないと生きて行けなかったと祖母にきいたことがあります。そんな母は
疎開先の田舎で、いつも茹で栗を懐に入れて歩いていました。それは、村いちばんの
おいしい柿のなる家の子どもに柿と交換してもらったり、あの家のさつま芋はおい
しいと聞くと、子どもに頼んでは持ってきてもらって交換するためでした。

東京に帰ってからはますます食べ物に不自由したようですが、えびがに(と呼んで
いた)を、近所の腕白坊主たちに取ってきてもらっては茹でて、集まった子どもたち
と楽しそうに食べていた母の姿が忍ばれます。それらが母の精一杯のぜいたくなので
した。

今の日本では考えられませんが、戦争のために苦しんでいる国の人々もいます。
46年前の地球にではなく、この豊かな時代のなかにです。戦争とはほんとうに
悲しいものだと思いますしては。いけないものだと思います。
  
  夢にあふ焼くる家並や終戦日
  飽食といふ字を引かせ終戦日

8月15日まで、あと3日、朝から曇っています。西日の当たらないうちにと思い、
ワープロで原稿を書いています。
外は蝉時雨、ほんとうに平和のひととき。終わったらシャワーを浴びて横浜へ買い物
に出るつもりにしています。
こんなぜいたくいいのでしょうか。亡き人たちにこの平和を見せてあげたかったと
手を合わせました。


[No.6663] Re: 戦争と終戦 投稿者:Kenza  投稿日:2014/08/15(Fri) 09:20
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>母の故郷の新潟で、電線に今でいうアルミ箔を細くしたような物がたくさん絡まって
>いて、それを取りのぞくおとなたちと、怖いものの遠巻きにしていた子どもたち。
>聞いて忘れてしまったのかどうか、あれは何だったのでしょうか。たしか飛行機から
>落された物でした。

これについては、私にも懐かしい記憶があります。

終戦前、われわれ子供たちが、「銀紙」と呼んでいたテープがありました。「銀紙」には、
金属だけのものと、裏紙の付いたものとがあり、金属だけのものは、くしゃくしゃにして、
手で丸めて、ボール状にすることができました。

終戦間際の空襲で、近くの川原へ逃げる途中、親からはぐれた私は、見知らぬお宅に
一晩お世話になりました。そこのお兄ちゃんが、いま拾ってきた、と言って見せてくれた
のが、それまで見たことのないテープで、「銀紙」よりもちょっと幅が狭くて、光沢が鈍く、
「銀紙」よりも厚手のものでした。

お兄ちゃんは、これは米軍の電波探知機妨害用テープで、日本軍の「銀紙」とは違う
と解説してくれました。

少し成長してから分かったことは、当初、日本軍の「銀紙」は、錫箔だったこと、そして、
後に、錫節約のために裏紙が付けられたことでした。一方、米軍のものはアルミ製で、
裏紙なしだったということです。いま台所で使っているアルミ箔は、くしゃくしゃにして、
手で丸めることができますが、このテープは、厚手だったため、うまく丸めることはでき
ませんでした。

考えてみると、このテープだけみても、彼我の金属資源の差は歴然でした。


[No.6666] Re: 戦争と終戦 投稿者:あや  投稿日:2014/08/16(Sat) 07:59
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> >母の故郷の新潟で、電線に今でいうアルミ箔を細くしたような物がたくさん絡まって
> >いて、それを取りのぞくおとなたちと、怖いものの遠巻きにしていた子どもたち。
> >聞いて忘れてしまったのかどうか、あれは何だったのでしょうか。たしか飛行機から
> >落された物でした。
>
> これについては、私にも懐かしい記憶があります。
>
> 終戦前、われわれ子供たちが、「銀紙」と呼んでいたテープがありました。「銀紙」には、
> 金属だけのものと、裏紙の付いたものとがあり、金属だけのものは、くしゃくしゃにして、
> 手で丸めて、ボール状にすることができました。

これは知りませんでした。弟が何か紙を丸めて、窓の枠によじのぼり外へ投げていた
ことがありますが、銀色はしていませんでした。
外で拾うの大変でした。

>
> 終戦間際の空襲で、近くの川原へ逃げる途中、親からはぐれた私は、見知らぬお宅に
> 一晩お世話になりました。そこのお兄ちゃんが、いま拾ってきた、と言って見せてくれた
> のが、それまで見たことのないテープで、「銀紙」よりもちょっと幅が狭くて、光沢が鈍く、
> 「銀紙」よりも厚手のものでした。

いやぁー、そんな体験がおありなんですね。
同じ時期ですね。家に残った父、母と祖母で逃げた東京の山の中でした。
はぐれないようにするには大変でした。細い道にどのくらいの人たちがいたか。

>
> お兄ちゃんは、これは米軍の電波探知機妨害用テープで、日本軍の「銀紙」とは違う
> と解説してくれました。
>
> 少し成長してから分かったことは、当初、日本軍の「銀紙」は、錫箔だったこと、そして、
> 後に、錫節約のために裏紙が付けられたことでした。一方、米軍のものはアルミ製で、
> 裏紙なしだったということです。いま台所で使っているアルミ箔は、くしゃくしゃにして、
> 手で丸めることができますが、このテープは、厚手だったため、うまく丸めることはでき
> ませんでした。
>
> 考えてみると、このテープだけみても、彼我の金属資源の差は歴然でした。

新潟は何かあって、米軍に狙われていたと、そのころ聞いたことがあります。

いい勉強をさせていただきました。ありがとうございます。