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[No.106] 誰のために愛するか 投稿者:男爵  投稿日:2011/11/15(Tue) 17:26
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曽野綾子:誰のために愛するか

気になる文章がいくつも書いてある。
愛読書というよりは人生の参考になることが書いてある本である。

著者は、結婚にあたって最低限のことを考えていた。
 中学2年の夏に終わった戦争は、最低限、人間が生き続けるということに偉大な意味があることを教えてくれた。
それ以上のものは、あればむろんありがたいが、ないからと言って、あるいは、捨てたからと言って、文句を言うべき筋合いのものではなかった。
 両親があまり円満でない結婚生活を送っていたということは、世間的に見れば不幸なことである。
しかし、著者はその結果、決してあまり多くを望まないですむようになった。
幸福というものは多分に観念的なものだが、不幸は具体的である。
著者は父母の結婚生活ではえられなかったものを、はっきりと結婚相手に望んだ。
 著者の母が、父より一分でも遅く家へ帰ることを許されず、子ども(著者のこと)の遠足につきそってきていても、いつもはらはらしているのを子ども心にも見ていたから、寛大な人が第一と思った。
 母は父と話が合わなかったから、話の合う人を望んだ。
生まれとか、学歴とか、背の高さなど、どうでもよかった。
 著者は尊敬できる人と結婚したかった。小説の書き方を教えてくれた夫。

 多くの場合、何人かの失恋の相手は、本当にその人がめぐり会って結婚すべきだった相手のところまで、彼または彼女を導いて行くのに必要な道標だった、ということである。
すべてのものに時期がある。
   .......
 生まれるに時があり、死ぬるに時があり
 植えるに時があり、植えたものを抜くのに時があり 
 殺すに時があり、いやすに時があり
 こわすに時があり、建てるに時があり
 泣くに時があり、笑うに時があり
   .......
   (旧約聖書 伝導の書)

 もう三年遅くめぐり会っていれば、あるいは結婚したかもしれない相手と
少しばかり早く会いすぎることもある。
しかし同じ梅の実でも未熟なものは、危険なのだ。
同じ相手でも、時が来ぬ前の恋はうまくいかない。
 道標は暗い夜道を歩くものの心をとらえるが、そこへ向かって突進したらやはり飛行機でも船でも航路をふみはずす。
道標は静かに見送って走らねばならないのである。それがいかに辛くとも。


[No.110] Re: 誰のために愛するか 投稿者:男爵  投稿日:2011/11/16(Wed) 07:52
[関連記事

> 曽野綾子:誰のために愛するか
>
> 気になる文章がいくつも書いてある。
> 愛読書というよりは人生の参考になることが書いてある本である。

お金をもうけるのは、貧乏から解放されるためだ。
千円を落としたために、どうてんしてしまい、数日間考えごとができなくなった、というような侘びしさから自分を自由にするためだ。
出世がいいとすれば、自分はダメな奴だったんだと思うひがみから解き放されるためである。
自分に自信のある人ほど威張ることはない。
つまりそこでも、人間は自由にふるまえるからである。
そして、名誉をも得た方がいいとすれば、それが人間にとって、実は予想外にむなしいものであることを知って本来の慎ましい人間の感覚を取り戻すためである。


[No.806] Re: 誰のために愛するか 投稿者:男爵  投稿日:2011/12/28(Wed) 19:51
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> > 曽野綾子:誰のために愛するか
> >
> > 気になる文章がいくつも書いてある。
> > 愛読書というよりは人生の参考になることが書いてある本である。

文学というものは、その頃、まだ今とはまったく違う感じで受けとられていた。
「文学をやる」などということは、グウタラな、社会の落伍者のすることであった。
そして、実は、今もまさにその通りなのである。どこの国に、偉大な道徳的な文学者などいるであろうか。そんな人はいもしないし、又、文学者の資質として必要でもない。

文学は人間の弱き部分をも見つめることである。その理解者になることである。殺人者の心をも我がことのようにわかることである。

文学をする態度はそもそも無精なものだ。それは孤独だし、偏狭であり、もろすぎる。それは不遜であると同時にたえず自分を認めようとしない。泣くと同時に笑おうとしている。本音と絢爛たる虚構がいりまじる。そんな分裂的な人間がどうして信頼するに足人物か。

人間のおろかしさ、弱さ、どろどろした欲望、あさましさ、みにくさ、そんなマイナス面もしっかりみすえないと真実の人間は描けない。
という著者の考え方はいまになってみると、その通りである。
小説が道徳的ではおもしろくない。何かイケナイもの、不完全なものを登場させて、それらをのりこえた道徳的な結末にするなら盛り上がりも出てくる。

かくして
体験的にアンパンマンだけではつまらないから、話を面白くするためバイキンマンがつくられた。
同様にやはり体験的に、正義の鬼太郎の脇役として卑怯な自分勝手な嘘つきのキャラクターねずみ男を水木しげるは登場させたのであった。

弱さ、みにくさ、あさましさという人間のマイナス面をもってこそ主人公たちは生身の人間として読者から共感される。
源氏物語、カルメン....みんな人間的だ。


[No.807] Re: 誰のために愛するか 投稿者:男爵  投稿日:2011/12/28(Wed) 20:35
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> > > 曽野綾子:誰のために愛するか
> > >
> > > 気になる文章がいくつも書いてある。
> > > 愛読書というよりは人生の参考になることが書いてある本である。

著者が小さいときから祈ってきた聖イグナシオの祈りに
「我が知恵、我が記憶、また我が意志をことごとく受け入れたまえ。それらはすべて主の賜なり」という一節があった。

えらくいい子になったように見えるので、この精神を別の言葉に翻訳すれば
「わては何も悪るうないでえ。こうなったんは××のせいやァ」
ということである。
 
著者は大きな方向は自分の意志で決めたいが、小さい部分は流されてもしかたがないと
考えるが、実際には人が決めるのは晩のご飯のおかずくらいかもしれないし
それだって、マーケットに行けば、予定していたものがなかったということはざらなのだと書く。
だから、われわれは運命という大きな力に流されるのかもしれない。

神のなせるままにまかせようという態度は、どこか他力的で他力本願の考え方に通じるものがある。