> 池内了編 > 雪は天からの手紙 中谷宇吉郎エッセイ集 > 岩波少年文庫555
昭和15年晩春に 湯川秀樹が北大に臨時講義に来た。 ホテルのスチームが熱すぎて、湯川博士は風邪をひいて肺炎になってしまった。 茅誠司がまだ北大にいた時で、これは大変と大騒ぎになった。 茅誠司は入院先の北大病院の内科部長に「湯川さんを肺炎くらいで死なしたら、北大病院は世界的に有名になりますよ」とおどかしたという。 (冬に寒くて風邪をひくことがあるが、このように汗をかいて風邪をひくことがある)
著者は 湯川秀樹の家が静かな六甲にあったから、そこで十分考える時間があったので 中間子理論を考えついてノーベル賞を受賞したのだろうと書いている。
GHQの経済科学局で自然科学方面の主任をずっとやっていたケリイ博士は物理学者である。 著者は、終戦直後の虚脱状態にあった日本の科学界が、あんがい早く息を吹き返したのは、ケリイ博士の指導と援助があったからと、大いに評価している。
さてケリイ博士は終戦後の冬の初めに北大の各研究所の様子を見に来た。 北大も石炭不足で暖房が止まっていた。したがって講義は冬季の四か月は休講、病院も半分閉鎖、手術も週一回という状態であった。 著者の低温研究所も、兵舎として接収されていた。 ケリイ博士は丁寧に調べ、低温研究所の接収解除にも大いに働いてくれたいう。
ケリイ博士は石狩川の河口の視察に行って、その帰りに吹雪の中、馬橇が立ち往生するようになり困ってしまった。 幸運にも、かすかな灯を見つけて、とにかくそこへたどりついたところ、それは貧しい百姓家であった。 迎え入れてくれたのは腰の曲がった六十余りの老婆であった。もちろん英語などわからない。普通の日本語もよく通じないような老婆であった。 その老婆は非常に親切で、ケリスさんをいろりのそばに座らせ、薪をどんどんくべてケリイ博士の体を暖めてくれた。 煙出しのないいろりなので、煙はもうもうと部屋にこめる。そんな中でケリイ博士は一晩中その老婆と対座して夜を明かしたそうである。 その間二人は言葉としては一言も通じなかったわけである。
しかしケリイ博士は後で言った。 「言葉は一言も通じなかったが、言葉などはいらないもので、あの老婆が言いたかった ことは全部分かった。そして思っていることもすっかり読みとれた。日本人の『言うこと』が、あれほどよく分かったことは、今までになかった」
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