鮎川哲也:ペトロフ事件 作者は子どもの頃から約20年、旧満州ですごした。 父親が南満州鉄道の測量技師だったので、彼の一家は長い間大連に 住んでいた。
1949年にミステリー専門雑誌「宝石」が3周年を記念して募集した 長編小説コンテストに応募し、特別賞に輝き、翌1950年に別冊に掲載。
当時の南満州鉄道のダイヤを見ながら読むと楽しい。
夏家河子(かがかし)駅の南の山の手のロシア人村のイワン・ペトロフ老人が 自宅で殺された。 発見者は深夜にここを訪れた甥アントンである。 アントンは中国人女性と結婚するというと、伯父から考えを改めなければ 遺産相続を断ると言われた。 だから、アントンにしてみれば遺言書を書き直さない うちに伯父が死んだことは都合の悪いことではない。
ペトロフ老人には甥が3人いた。 しかし、それぞれ彼の意向に従わないことをしていた。 第一発見者のアントンも伯父の意向にしたがわないのだが ほかの2人(ニコライとアレクサンドルの兄弟)も 伯父の忠告に従わないときは遺産が分けられないのである。
ペトロフ老人の殺されたと推定される時刻には、 3人の甥はみなアリバイがあった。
犯人のアリバイをくずすのが大連沙河口警察署の鬼貫(おにつら)警部である。 甥のアレクサンドルとその婚約者ナタリヤの案内で鬼貫は東鶏冠山の北堡塁や コンドラテンコ少将戦死の碑を見たりして、彼らがこの場に来たことを確認する。 その後は関東庁博物館に寄り、彼らが3時過ぎに博物館でパンフレットを買い求め たことを確認してから、鬼貫は彼らにはアリバイがあると思う。
鬼貫警部は甥のニコライがアリバイを証明する中国人の老人に所に行って確かめると ニコライが来たのは孫娘の誕生日の9日であったが、アルバムの写真のコウリャン の高さが老人の肩しかないことに気がついた鬼貫は、2ヶ月前の写真と見破る。 すなわち、ニコライがこの家に来たのは10月9日ではなく、旧暦の8月9日 だったのだ。甥のニコライにはアリバイがないことがわかり彼は逮捕される。
ところが、爾霊山(にれいざん)の日本人写真屋が10月9日午後5時40分に ニコライとナタリヤを一緒に写したと名乗り出る。 もしニコライが犯行の後に旅順に戻ったとすると、16時49分夏家河子発の列車に乗り旅順着17時50分となる。 駅からタクシーに乗り爾霊山に駆けつけても、6時半なってしまう。 彼らが暗くなった山頂で写真を撮るのは困難である。
警察に逮捕されたアレクサンドルは、自分が伯父を訪問した時刻は3時40分すぎで 実はそのときはもう伯父は死んでいたのだが警察は信じてくれない。 そのとき中国人のご用聞きの小僧がペトロフ老人の声を聞いたと証言したわけだが、 その声こそアレクサンドルが伯父の声を真似したのにと婚約者ナタリヤには言う。 そしてナタリアからその話を聞いた鬼貫は、犯人が誰だか確信する。
そこで犯人のアリバイを崩すのに列車ダイヤの謎解きが始まる。 この小説は鉄道ミステリーの元祖なのである。
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