「おたく」について ★「おたく」族考 ドイツ語の教授の文章から
この春大学に入った娘に、入学前でひまだからなにか面白い小説はないかと 聞かれて、たまたま「ヴェニスに死す」の翻訳をわたしたところ、数日後に 返してきて変な小説だという。「だってアッシェンバハという人なにもしな いんだもの」というのが娘の言い草だった。
私もかねがね似たような感想は持っていたので、なるほどと思った。私が 感じていたのは、アッシェンバハは本当に男色といえるのかどうか、少年のあ とをこっそりつけていくだけで、肉体的接触に及ぼうという気配は一向に示さ ないから、観念の男色家とはいえても、いわゆるホモとは別の人種ではないの かといったことであった。
しかし娘が言うのは、そんなことよりなにより、主人公は勝手に見たり考えたり しているだけで、相手に直接話しかけたりは一切しない、今でいう「おたく」では なかろうかということだった。
なるほどアッシェンバハはまさに「おたく」族であり、この小説に書かれている ことはすべて彼の脳髄の密室を通りすぎた情景にすぎず、相手の少年からすると、 アッシェンバハの存在などは気づかなかったか、気づいたとしても、そういえば 変な年寄がいたなあという程度のことであったろう。二人のあいだには人間としての 接触はまったくない。
接触がないといえば、マンが「ヴェニスに死す」より10年近く前に書いた 「トニオ・クレエゲル」でも、主人公は憧れの少女インゲとは口を利いたことが ないようだ。インゲにしてみれば、黒い髪の陰気な少年がいたなあという印象しか なかったろう。トニオもまた典型的な「おたく」である。 ......
ヴィデオにCDにファミコン、ワープロ等、子供の時から「おたく」族を育てる ためのきっかけはふんだんにある。昔なら玩物喪志とでも言ったのだろうか、これらの 器械に淫してしまうと、他人(ひと)には目がいかなくなり、他人と遊ぶことも なくなってしまう。
いやそれどころか、他人といっしょにいても遊べなくなるらしく、今の子供 は友達の家へ行っても、一人はファミコンで遊び、一人は劇画に読み耽った末、 2,3時間もいて殆ど口をきかずに帰ってくるなどということが珍しくない らしい。
親たる私の方も、昔から人づきあいのよい方ではなかったから大きなこと は言えない。一人で家にとじこもって本やレコードという”物”に淫している ことの多かった私など、昔の「おたく」族に属していたことは間違いないし、 今では存在しなくなった文学青年という種族自体「おたく」族の前身であった といえよう。
そう考えれば、アッシェンバハやトニオが「おたく」族であって 少しも不思議はない。
しかしそのドイツ文学でも、「おたく」族は昔から存在していたのではなく、 19世紀のあいだに静かにその数をふやしていったものらしい。
そんなことを考えるようになったのも、このところ毎年のように「若きヴェルテル の悩み」、「みずうみ」、「トニオ・クレエゲル」の3作とつきあってきたからだ。
勤務先の授業で数年来ドイツ文学の入門的な講義を担当していて、学生たちに いつもこの3冊の感想文を書いてもらっている。
いずれも一人の女性をめぐって詩人肌の男と生活者型の男が 張りあう三角関係を扱っており、この3冊をくらべたときに、18世紀の後半から 20世紀の初頭にいたるドイツ文学の推移が端的に把握できると思うからである。
3作を読みくらべたときに一番健全なのは、なんといっても「ヴェルテル」 である。
ヴェルテルは最後に自殺してしまう人間でありながら、暗いところ や陰気なところが少しもない。
自然に対しても人間に対しても心と感覚を一杯に開いて生きているし、 ロッテもまた同様に溌剌と生きているから、二人はたがいの人格をよく知り あった恋人同士になりえている。
この小説にあっては人と人、人と自然の関係が密であり健全であると つくづく思う。
それが80年程あとに書かれたシュトルムの小説になると、人と人、人と 自然のあいだはかなり離れたものになっている。
ラインハルトとエリザベートは幼ななじみだとはいえ、男の方が大学へ 行った頃から、二人の間に距離が生じてくる。ラインハルトはエリザベートを そのままの姿で愛するのではなく、エリザベートを夢みる男になっていく からだ。
夢みられたエリザベートは、エリザベートという生身の女性を離れて、 今でいえばヴィデオの画面に映る美女に近い存在に変貌していく。
彼女の側からすると、そのぶんだけラインハルトも遠ざかって行ったのであり、 この人は一体何を考えているのかしらという問いを心の中で何度もくりかえしたに ちがいない。
そうした得体の知れない感じがあるからこそ、エリザベートはエーリヒという 生活人と結婚してしまったのだろう。
次にマンが「みずうみ」を意識しつつ書いたらしい「トニオ・クレエゲル」 になると、インゲという美少女はこの世界に生きている人間としての輪郭が ごくごく薄い。
この小説にはそもそも恋愛は存在しないし、人間の関係といったものすら 殆ど存在しない。
終わり近くの北の町での舞踏会の場面とて、主人公がハンスとインゲに再会した ように見せかけながら、よく読めばまったくの別人で、単にタイプが似ていただけだ という。
すべては「おたく」族たるトニオの見た夢にすぎないことになる。
こうして3作を並べてみると、「おたく」化は19世紀の百年のあいだに 確実に進行していたのだと思われてならない。
「おたく」化とはロマン主義の進行と頽廃の謂であろう。
そして現在氾濫している「おたく」族とは”近代的自我”なるものの大衆化した かたちだといえようか。
もちろん「ヴェルテル」も「みずうみ」も「トニオ」も数あるドイツ小説 のなかの3作にすぎないから、これをもってドイツ小説の各時代を代表させる のは無謀かもしれない。
だが、ドイツの小説中文庫本で一番手に入れやすい3冊に関するかぎり、 「おたく」化の進行をそのまま反映しているように思われるし、 さらにもう一冊、文庫本として手に入れやすい「変身」となるとどうだろう。
この小説「変身」には、今あげた3作のような三角関係はまったく書かれていないが、 グレーゴルという主人公は「おたく」も「おたく」、毒虫に変じたその姿は さながら「おたく」のお化けに見えるのが不気味だ。 (松本道介、さろん)
以上引用した文章については 著者から掲載の快諾を得ています。
この文章を書いた先生は、中央大学のドイツ語の先生です。 ドイツ文学にも、おたくがあった。 日本ではすでに多数のおたくが昔からあって私小説や純文学は 私にとっては、おたく的な印象なのですが.....
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