> 渡部昇一・和田秀樹:痛快!知的生活のすすめ
ダーウィンに「種の確立」を教えたのはウォーレスである。 ウォーレスはマレー半島を回っているときに 「どのようにして新しい種はできるのか」という問題について、ダーウィンに手紙を送っている。 ダーウィンもそれまで20年近くさまざまな資料を集めていたが、なぜどのようにして変種になるかということについては、わからなかったのだ。
ウォーレスは、もとの型であるAから離れて変種A'が生まれ それがさらにA''になりというように、無限に離れていくことによって 別の種になるのではないかと考えた。 これは微分の概念から発想されたものだったが、おそらくダーウィンは微分を学んではいなかったのだろう。
ウォーレスはダーウィンに最初の手紙を出した2年後に インドネシアのモルッカ諸島のなかのテルナテ火山島に行った。 そこでマルサスの「人口論」を思い出した。 これは、人口というのはいつも食料の限度以上に増え続けようとするが、さまざまな障害があって抑えられるという理論である。
ウォーレスの本職は昆虫採集だったから、昆虫をつぶさに観察してきた。 昆虫はじつに膨大な量の卵を産むにもかかわらず、一方的に増え続けていかないのは 増やさない力が働いているからだということに気がつくのである。 弱いものは強いものに食べられて、自然淘汰されていくということである。 では最後まで食べられないものは何だろうと考えたとき 彼はマルサスを思い出し、生物進化の「自然淘汰」の原理に思い至ったのだ。 彼はその考えを論文にまとめあげて、ダーウィン宛に二度目の手紙を送った。
それを受け取ったダーウィンは、腰も抜かさんばかりにおどろいた。 自分が20年間やってきたことは、いったい何だったのかとさえ思ったらしい。 けれども地質学者のライエルや動植物学者のフッカーらダーウィンの友人たちが なんとかダーウィンにプライオリティ(優先権)をとらせたいと その生物進化の「自然淘汰」の原理を、ウォーレスとの共同発表という形で リンネ学会で発表させた。 そしてダーウィンに「種の起源」の出版を決行させ、世間一般敵に進化論の議論が 始まることになった。
そうしたところ、1980年ぐらいになって、ブラックマンという人がリンネ学会の 議事録を調べていくうちに、ダーウィンは「進化論」を発表していない ということに気づいた。 「進化論」を発表しているのはウォーレスで、それは序論・本論・結論の どれをとってもまったく完成されたものだったのだ。
ウォーレスは、それほどまでにしっかりしたものを書き上げて、送っていたのだ。 一方ダーウィンが発表したものは、理論にはなっていない研究の一部をちょっと出した ものにすぎなかった。 それを彼は共同発表という形にしてごまかしたというわけである。
このウォーレスの発見は、脳に蓄積されたものが新しい思考に生かされたという 典型的な例といえるのではないか。
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