斑鳩の塔に雲流れて わが回想の聖徳太子 主婦の友社 1979
玉虫厨子に描かれている「捨身飼虎図」 この「捨身飼虎図」は、ブッダの前生物語で 薩た王子(「た」は土篇に「垂」)が飢えた虎の母子に自らの肉体を布施するという物語を静止画像をいくつか組み合わせて描かれてある。 つまり、この図は「異時同図法」の典型的な例としても知られ、王子が衣服を脱ぎ、崖から身を投げ、虎にその身を与えるまでの時間的経過を表現するために、王子の姿が画面中に3回登場する。
敦煌石窟をはじめシルクロードのいくつかの石窟に このモデルとなる絵が描かれてある。
しかし、法隆寺の玉虫厨子を見ただけでは、絵は不鮮明でとうてい鑑賞できるものではない。
聖徳太子の妃は何人かいた。 菟道貝蛸皇女(うじのかいたこのひめみこ) 敏達天皇と推古天皇の子。聖徳太子のいとこであり妃だが、結婚後まもなく逝去したと思われる。 この本では、蛸は魚編の字となっている。
推古天皇の娘に対して、蘇我馬子も太子に自分の娘をめあわせた。 刀自古郎女(とじこ の いらつめ)も、聖徳太子の妃。父は蘇我馬子、母は物部氏の女と伝えられている。
いちばん太子の愛を受けたと思われる膳大郎女 膳大郎女(かしわでのおおいらつめ)は聖徳太子の妃。
推古天皇30年(622年)、斑鳩宮で倒れた厩戸皇子の回復を祈りながらの厩戸皇子妃・膳大郎女が2月21日に没し、その後を追うようにして翌22日、厩戸皇子は亡くなった。(日本書紀では、同29年2月5日(621年))
実は聖徳太子にはもう一人の妃がいた。橘大郎である。 彼女は膳大郎女と太子を相次いで失い、一人残されたのである。 橘大郎女(たちばな の おおいらつめ)は、聖徳太子の妃。父は敏達天皇の皇子・尾張皇子で、推古天皇の孫に当たる。聖徳太子との子に白髪部王、手嶋女王の二人。
膳大郎女に嫉妬を燃やしたであろう橘大郎女は 聖徳太子が死ぬと、推古天皇に願い出て、釆女に天寿国曼荼羅繍帳(てんじゅこくまんだらしゅうちょう、天寿国繍帳とも言う)を作らせた。 これは、聖徳太子の死を悼んで、死後に行ったとされる天寿国の様子を描かせたものと言われる。現存する日本最古の刺繍である。
橘大郎女は刺繍の天寿国に、彼女は太子と並んで自分自身の姿をもはっきりと描かせたのではないかと、この本の著者は推定しています。
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