[掲示板へもどる]
一括表示

[No.672] 千年震災 投稿者:男爵  投稿日:2011/12/20(Tue) 16:36
[関連記事

都司嘉宣:千年震災

著者は東大地震研究所の先生

高さ10mの防潮堤が粉々に
 明治と昭和の三陸津波の被害を受けて
田老町はどこの援助もほとんど受けずに
町の人の財力だけを営々とつないで
25年あまりかけて高さ10mの防潮堤をつくった。
完成したのは昭和33年。
その後、町が広がったので、昭和53年からその外側にもうひとつ
同じ10mの高さの防潮堤をつくった。

今回の津波で、昭和53年から後につくられた防潮堤は見事に全部
なくなっていた。
外側の防潮堤の前面は幅1m以上のコンクリートでけっこう厚い。
背面のコンクリート壁との間は、土のあんこになっている。
これがもう、積み木を倒すように壊れていた。そのコンクリート壁が
もとあった位置から100m,200m内陸に飛んでいるのである。

著者は重大なことに気づく。下の部分と上の部分、高さ10mのうち
地面が2mぐらいあって、その上の8m分が、4mずつ2段の
コンクリート構造物が積み木を積み重ねたようになっていた。
それが津波によってつるっと滑った感じで上の部分が落ちてしまった。
窪みと出っ張りをかみ合わせたほぞがないのである。(凹と凸のかみ合わせたほぞ)
さらに鉄筋で上と下を一体化するようなことも全く行われていなかった。

工法をみると下をつくって、別のところでつくった上の段をクレーンかなんかで
吊り上げて載せただけである。これでは津波の力を受けると簡単に滑って
上の部分が落ちてしまう。
地元の人たちが昭和40年代までに自力で築いた防潮堤はびくともしていないのと対照的だ。

後でできたほうは安易な造り方である。わずかな鉄筋が1本か2本
ピンでとめてあるぐらいのものがあるだけで、すべてずれてしまった。
せめて鉄筋を上から下まで通すか、あるいはほぞでかみ合わせることを
していればよかったのに。

著者はこれと同じような造り方をした防潮堤を四国でよく見たということを思い出す。
これまでの南海地震や東海地震で津波の来ている町が、「10mの堤防がうちにも
できましたよ。これでだいじょうぶでしょう」と言っていたやつだ。

これはあぶない。自治体の人は、その堤防の構造、工事をしたときの設計図や
写真をもう一度見直した方がいい。下の部分と上の部分がよほど一体感をもって
つながっているか、確認したほうがいい。きっと、上下をかみ合わせるほぞも
鉄筋も何もなくてぎゃーという場所が出てくると著者は予言する。
(私も心配)

この著者は地震学者であるが、学部では土木工学を学んでいるから、構造物の
知識が理学部での研究者よりはあるようだ。
大学院は理学部系に進んだのである。


[No.675] Re: 千年震災 投稿者:男爵  投稿日:2011/12/20(Tue) 17:05
[関連記事

> 都司嘉宣:千年震災

歴史の舞台から消えた鯰絵
 安政江戸地震は、町人の死者が4000人余、武家の死者を加えれば
死者の合計が1万人にもなるという、江戸開府以来の大災害であった。
 この地震でもっとも悲惨な被害にあったのは遊廓の吉原であった。
出入り口が大門(おおもん)一箇所だけなので、地震がひとたび起きると
中の遊女たちはたちまち逃げ場を失い、江戸で最も集中的に死者を出した。
彼女らの遺体は三ノ輪の投げ込み寺・浄閑寺の境内に身元不明のまま集められ葬られた。
(投げ込み寺・浄閑寺には地震とは関係なく病気や寿命で亡くなった遊女たちの墓がある)
 当時の鯰絵「しんよし原大なまづゆらひ」(新吉原鯰由来)には、哀れにも
地震の最大の犠牲者となった遊廓の遊女たちが描かれ、他の業種の人びとと
共に地震を起こしたにっくきナマズを懲らしめているのである。

しかし、2,3カ月たち、江戸市民が落ち着きを取り戻しはじめると
復興景気のため大工職や左官職などの懐に銭が潤ってきた。
すると、彼らは遊廓で生き残った遊女たちのもとへ出かけ、遊女たちも
潤うようになってきた。

このような世情を反映して、後期は地震鯰に感謝し、さらに世直しの期待を
連想させるような絵柄の鯰絵が描かれるようになる。
 
この葉運を敏感に察知した幕府は、ただちに鯰絵の制作販売を禁じた。
鯰絵はわずか3カ月あまりの大ブームののち、幕府の弾圧によって
急に歴史の舞台から消滅したのである。

この本には東大地震研所所蔵の「(巨大)ナマズを懲らしめる吉原の遊女たち」の絵が載っている。


[No.676] Re: 千年震災 投稿者:男爵  投稿日:2011/12/20(Tue) 19:01
[関連記事

> > 都司嘉宣:千年震災  

この本には歴史上有名な地震津波の被害を詳しく述べていますが
ほかでも扱ってきたので省略します。

なるべく違う視点での話題を紹介します。

越後三条地震で良寛さんが書いた手紙
 良寛71歳の文政11(1828)年、越後三条地震は起きた。
良寛が当時住んでいた草庵は無事だったが、長岡市から三条市にかけて
中越の平野部は震度6強から7の強い地震に襲われ、約1400人の死者が出た。
 その地震の約1カ月あと、良寛が重大被災地のひとつとなった長岡市の友人
山田杜皐(とこう)宛の手紙が、出雲崎町の良寛記念館に遺されている。
  (原文は省略) 読みたい方は上記の本をお読みください。

現代語訳
「地震は実に大変な災害です。私の住居は無事で、親類に死者がいなかったのは
幸いでした。思いがけない災害から生きながらえてみると(あまりの被害に)
心に穴が開いたように気落ちもしてしまいます。
 しかし、災害が起きたときは、すなおに自然災害に遭い、死ぬときは死んでしまえばいい。こう考えるのが、災害に打ち勝つ手段なのです」

この最後の部分「災害が起きたときは、すなおに遭い、死ぬときは死んでしまえばいい」とは、実に大胆な考え方である。

1995年の阪神大震災では、多くの人が愛する人の生命や家、財産などを失った
大きな悲しみで、がれきと焼け跡ばかりになった街の中、気力も何もなくしてしまった。

しかし良寛は、「災害といえども、長い自然の流れのほんの一場面。
じたばたしたところで人間なんてちっぽけなものさ ーーー と考えることにしよう」
というのである。

 これに対して、「大災害の最中に、そんな呑気なことを言っていられるか」とか
「財産をほとんど持っていない良寛だから、そんなことが言えるんだ」という
反論がただちに返ってきそうだ。

そのことは重々承知の上で、この文を浅く理解して誤解することなく、
良寛の真意に静かに耳を傾けたいと思う。
そう著者は述べている。
(参考文献  加藤 僖一編:良寛の名品百選、考古堂書店)

災害にあったら素直に受け止めよう、死ぬならそれも受け入れよう
という考え方は、実はキリスト教関係者の言葉にもみられる。
それも一つの考え方なのかもしれない。