シェイクスピアの作品「ヴェニスの商人」が以前(#290)取り上げられたが、沙翁には他に「ロミオとジュリエット」という作品がある。
あっしの蔵書では、そのヒロインの名が「ジュリエト」となっていたのを不審に思い、他の本をみると、ある本では「ジュリエット」、他の本では「ジューリエット」となっていた。
ギョエテではないが、どうして日本ではこういう現象が起きるのか。みっつもあると、それぞれが別の物語のような気がしてくる。なんとか、ならぬか。
他の本では、しかし、統一されている。たとえば、「ヴェルレーヌ詩集」などは、「ヴェルローヌ詩集」、「ヴェルラーヌ詩集」など見たことがない。
「マノン・レスコー」についても、「マノン・レスカー」だの「レスキー」だのは残念ながら、今までのところ、一度も見たことがない。
沙翁がこれを書くにあたってイタリアの小説(マッテオ・バンデッロの作品)をベースにしたことは有名だが、その一つに、やはりイタリアの作家、ルイジ・ダ・ポルタによるものがある。
こちらももちろん、沙翁より古いわけだが、ここではロメオよりジュリエットの方が先になっていて、表題は正確には「ヂュウリエッタとロメオ」(杉浦民平訳)になっている。
舞台となった、イタリアのヴェローナへ行った人はご存じのはずだが、ここではジュリエット、ロミオではなく、ジュリエッタ、ロメオである。名車のアルファ・ロメオも世界中に名を轟かせているが、これがアルファ・ロミオでは、なにかしまらない感じ。
シェイクスピアの「ロメオ」は、戯曲であるが、ダ・ポルタ、バンデッロのは、散文である。老生バンデッロは未見だが、ダ・ポルトなら読んだ。
あらすじの上で、結末に違いがあって、ダ・ポルトのはケッコウ込み入っている。沙翁のは、ジュリエットの横たわっている墓のまえで、ロメオがジュリエットの親の決めたいいなずけを斬り殺したりするが、ダ・ポルトではそういう立ち回りはなく、ロメオはかんたんに墓の中に入ってしまう。
また、ロメオは墓に行く前に、ジュリエッタの家の者にあい、ジュリエッタがすでに『死んだ』ことを知ってしまう。
そこで、沙翁のように、旅先(薬屋)で毒薬を手に入れるのでなく、日頃から用意していた薬を持って、ヴェローナへと向かう。いちばん大きい違いは沙翁では、ロメオが猛毒をすぐ呑み、即死するが、ダ・ポルトでは、ロメオが死ぬその前に、ジュリエッタが蘇生し、二人の死の接吻が終わってから、ロメオは息を引き取る。
遅かりし由良の助こと、ロレンツォ師は領主から尋問を受けるが、事情を説明すると意外と簡単にゆるされる。
ダ・ポルトでは、死んでゆくジュリエッタに口止めされていたので、あやふやな返事をし、かなり鋭く、突っ込まれ、ロレンツォ師は最後には、包み隠さず全部話して許される。
沙翁の場合、その後はすぐ幕となるが、ダ・ポルトの方では、死体を教会堂にうつしたり、そこで両家の涙ながらの和解があり、記念碑も作られ、全市をあげて盛大な告別式が催されと、結末も手を抜かず、丁寧に書き込んであった。
もともと、この話はヴェローナ市の年代記に載っていて、実話と云っていいものだったのである。
したがって、沙翁で、たんに領主となっているところも、ダ・ポンテでは、バルトロメオ・デッラ・スカーラであり、実在の人物である。
沙翁のを読んでいて、まごついたのは、マンチュアという地名。大分考えてから、これがマントヴァと分かった。
シェイクスピアの芝居の幕切れで、モンテッキ家の当主が「御息女の像を純金で建てる」と公言した通り、ヴェローナのジュリエッタの家の前には、ほんとうに純金の像があり、世界各国からの観光客の人気を集めている。
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