山田輝子:ウルトラマン昇天 M78星雲は沖縄の彼方
金城哲夫は沖縄の高校の受験に失敗して、 上京して玉川学園高等部、玉川大学文学部教育学科卒業。 このとき一年上で高等部の面接試験に教師から頼まれて面接事務を手伝ったのが札幌出身の著者だった。 合宿などで著者は金城を知り、以後彼の活躍に注意するようになる。
玉川学園時代に、恩師である上原輝男の影響を受け、脚本に興味を持ち始め、 上原より教え子の一人だった円谷皐(のぼる)を介して円谷英二を紹介され、 東宝特撮映画で健筆をふるっていた関沢新一からシナリオライターとしての手ほどきを受ける。
大学を卒業するまでに、すでに彼は円谷門下でウルトラマンの準備をしていたことになる。
「ウルトラQ」 1964年9月から撮影が始まったが、全体の企画からスポンサー決定までがなかなか 進まず、実際に放映されたのは1966年1月からである。
円谷プロダクションがTBSで放送するため怪獣テレビ映画「ウルトラQ」を 作ったのだが会社の評判は悪く、かれこれ一年間もお蔵入りになっていた。 これを「少年マガジン」で取り上げて追い風を起こしたのである。 http://www.mellow-club.org/cgibin/free_bbs/11-semi5/wforum.cgi?mode=find&list=newsort&word=%83E%83%8B%83g%83%89%82p&cond=AND&view=10
金城は28作中14作の脚本を単独あるいは共作で書いた。
この評判の中から怪獣シリーズとしての次作「ウルトラマン」が企画される。
「ウルトラQ」「ウルトラマン」「ウルトラセブン」の三シリーズ計116本のうち、金城は共作を含め40本のシナリオを書いた。
その後の製作番組は売れるものもあればそうでないものもあり、経営は悪化して、 1969年に円谷プロダクションを退社し 沖縄県に帰った金城はラジオのパーソナリティーや沖縄芝居の脚本・演出として活躍し、 さらに沖縄の幕開け時代のテレビ界でも活躍した。 最大のイベント番組「新春民謡紅白歌合戦」の司会は金城のはまり役となった。
沖縄海洋博の構成・演出などで活躍したが、これが最後の仕事となった。
1976年2月23日、泥酔した状態で自宅「松風苑」の2階の仕事場へ直接入ろうとして 足を滑らせ転落。治療の甲斐なく、3日後に脳挫傷のため死去。享年37。
放送界にいたときからすでに酒におぼれるようになっていた金城は、生きる目的をどこかで失っていたのだろうか。
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