永井荷風に息子がいたのかと思うと これは養子の永井永光の書いた本。
白水社 2005年
永井荷風は長男で弟たちがいた。 貞二郎と威三郎である。
永井荷風の父には弟(久万次)がいた。 久満次は永井家から大島家に養子に入り 長男一雄をもうけた。 この一雄の次男が著者である。
著者の父である大島一雄は杵屋五叟と名乗り長唄の師匠となる。 つまり 永井荷風は大島一雄の従兄になる。
著者が永井荷風の養子になったのは 昭和19年3月22日、荷風64歳、著者が11歳の時だった。 著者は暁星中学に入学してからは永井の姓を名乗る。 荷風としてみれば、戦争が激しくなって、家督を継いでくれる者がほしかったのであろう。
荷風には弟たちがいたが荷風とは肌合いが違っていて 荷風も兄弟やほかの親戚とは没交渉だったのに ただ一人、大島一雄だけは心を許すようになったのは 長内人ながら文筆もとった一雄が荷風を尊敬していたからではないかと 著者は推定する。
荷風は、小学生の著者には何も言わなかったが、著者の実父にこんなことを言っていたという。 「軍人、役人、医者、教員には一切させないこと」 著者はこの影響を受けてか、銀座のバーでバーテンをして、後に自分の店を持つ。 その店の名前を実父は荷風にちなんだ「偏奇館」と名付けた。 これは麻布にあった永井荷風の住居だが、東京大空襲により焼失。 ペンキ塗り洋館であることをもじって、荷風自らが命名したという。 「偏奇館」の「偏」はこの本では「ぎょうにんべん」である。
著者のことは永井荷風の日記の中にときどき出てくるという。
やがて著者は荷風と同居したりするが 結局、著者も結婚をして、荷風は一人暮らしの中で死んだのであった。
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