> > 杉村悦郎:子孫が語る永倉新八、新人物往来社(2009) > > 永倉新八は松前藩士だった。 > 幕末動乱期に松前藩を脱藩して新撰組に入る。 > > それから > 松前に戻り > 明治4年(1871年)以降は杉村義衛と改名し、樺戸集治監(刑務所)の撃剣師範を務めた。
江戸にいても危険なので、松前藩家老下国東七郎の計らいで 永倉新八は松前藩に戻るのだが、そのとき藩医の杉村家の養子となる。 それから間もなく松前藩も廃藩となる。
松前藩家老下国東七郎も動乱期を生き抜いた人物だった。 下国は慶応4(1868)年、佐幕派だった松前藩を勤皇派に転向させるべく クーデターを起こした。 このクーデターの2か月半後に函館戦争が勃発した。 当然、勤皇派になった松前藩は新政府軍について榎本軍と闘ったわけである。 明治元(1868)年 旧幕府、蝦夷地平定 明治2(1869)年 五稜郭陥落 下国東七郎はこの函館戦争の指揮をとってもよい立場だったが 藩政を掌握した後、厚沢部に築城を計画して 新政府の許可を得るため、京都と藩邸のある東京を往復していた。 その時に永倉新八と面会する機会があったようだ。
このように 永倉新八はめまぐるしくかわる世の中で、幸運に身を処せたのである。
「新撰組顛末記」に登場する人物で、無残な最期を遂げた二人の志士がいる。 一人は、永倉新八が清河先生と呼んだ庄内の清河八郎であり もう一人は、徳川の遺臣をまとめて薩長とさいごの決戦をやろうと約束した米沢の雲井龍雄である。 どちらも山形県人で、藤沢周平はそれぞれを主人公にして小説を書いた。 清河八郎の「回天の門」、雲井龍雄の「雲奔る」である。 清河は早く生まれすぎ、雲井は遅く生まれすぎたというが、人の生き方は時代という背景により評価が変わる。生き方をうまく変えていく知恵もその人の個性であり能力といえるかもしれない。
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