画像サイズ: 535×269 (88kB) | 国電のなかはため息の合唱
べ二アで囲った細い通路を通り抜けるとまた駅のコンコースに出た。ここから階段を登るとホームになっている。ここには別の電車が待っており、すでに半分くらいの座席がうまっていた。車掌さんも運転手さんもさっきと同じ東ドイツの制服を着ている。この後、さらに5、6人乗ってから電車は動きだした。出るとすぐ高架線になり例の壁に添ってしばらく走る。壁越しに西ドイツの国旗がたかだかとあがっているのが見える。車内から小さな歓声があがった。 やがて電車は国境を越え西ベルリンの最初の駅に到着する。 ここで東ドイツ側の乗務員がすべて降りる。引き換えに西ベルリンの乗務員が乗り込んでくる。乗務員交替を終えると電車はすぐに発車した。この時、私の前の座席にいた4人の家族ずれのおかあさんがびっくりするような大きなため息をついた。これにつられて車内のあちこちからため息や歓声がきこえてきた。この家族ずれ、古ぼけたトランクを8つも持っていたし服装も古びている。どんな事情があったのか。何か重い過去がこの時代遅れなトランクの底に隠されているように感じられる人たちであった。 単なる観光客は少なくとも私のほかにはいない模様である。 「ついでにサラダ付きのランチをたべて」そんな不謹慎な?理由で壁を越えるなんて到底考えられないことである。なお、東ドイツでは、到着した翌日以降、生野菜がレストランのメニューからもマーケットからも消えた。例のチェルノブイリの放射能に対する懸念からであろう。しかし、後に会った日本人の話では、まったく何のご挨拶もなく「突然」姿を隠したとのこと。「消えること」も「その理由」も知らされていなかったよし。帰国の前々日ころには、また何のご挨拶もなく登場した) サラダのことを考えることすら何か不謹慎なような車内の雰囲気であった。
自由とはきたなく、うるさいもの
5分ほどで西ベルリンのZ00駅、すなわち動物園前駅、に到着。ここで下車した。東京でいえば上野と銀座をつきまぜたような繁華街だ。西ベルリン側では、まったく入国審査はない。ホームから通路へ出てびっくりした。なんともきたないのである。 空き缶やビニールが散乱し埃っぽい。塵ひとつおちていない東ベルリンからくるとよけいにそう感じる。駅の構内をでると、まずコジキが目に付いた。しばらく歩くとアル中のおっさんがいた。昼間から完全に目が据わっていて怖い。とにかく、オイローバ・ツェンターというルミネのような雑居ビルヘいき、ここで煮込み料理とサラダを食べた。オイローバ・ツェンターの展望台はティールームになっている。ここで600円のクリームサンデーを嘗めながら(西ベルリンは物価が高いのである)街を見渡していると厚い雲の割れ目から太陽が顔をだした。まぶしい日差しを浴びながら私は太陽と話し込んでいた。 「コジキがいるっていうけど、東ではコジキをする自由もないということじゃないのかね」。「でも西側諸国の人たちはこの40年、ありとあらゆる自由を試してみたでしょう。ゼネスト、ウーマンリブ、学園紛争、離婚、ヒッピー、ヌーディスト・クラブーーーそれで何が得られたんですか。いまじや、ユーロペシミズムなんていっているでしょう」。「しかし、あんたは、ベルリンの壁を越えてきたひとたちのあのため息をどうおもうかね」。「でも、この西ベルリンの人こそ、籠の鳥でしょう。壁に囲まれている街なんかに住んでいるからアル中になるんじゃないかしら」。「まあ、とにかく難しい問題だよ。あんたもせっかちに結論を出さずによくみてよく考えてみることだね」。 太陽が雲の奥へ帰ってしまったので展望台を降りて街に出てみた。クーダム通りなどを歩いてみたがなんとなく落ち着かない。それに、いまやニナリッチもバーバリも西のお金さえ持っていれば東のインターショップでも買えるのだ。 少し早いけれど東に戻ることにしてフリードリッヒシュトラーセ駅に向かった。 (写真はカイザーヴィルヘルム記念教会と街の様子です) |