蛇足ですが > 昭和9(1934)年5月、高村光太郎は精神を病んだ智恵子夫人を九十九里町真亀納屋の「田村別荘」に転地療養させました。 > 「田村別荘」には智恵子の実妹斎藤セツ一家(夫新吉・子俊太郎)と母センが住んでおり、智恵子の介護にあたりました。 > 智恵子は 九十九里町でその年の12月まで8ヶ月間の療養生活を送ります。 > その後 > 昭和10年(1935)には智恵子をゼームス坂病院に入院させます。 > この病院で智恵子は、今までおさえられていた創作意欲をはきだすかのように切り絵に没頭し、一千点もの作品を残します(一部は安達の智恵子の生家の裏の記念館に展示されています)。 > 智恵子は、3年後にこの病院で生涯を終えます。
智恵子は、父斎藤今朝吉と母せんとの間に生まれた長女である。
二女せきは女子大に入り智恵子と数年間一緒に暮らしたが、結婚前に私生児を生んでいる。
三女みつは智恵子の晩年を看病した宮崎春子の母で、30歳で亡くなっている。
四女よしの夫は長沼家の支配人になったが、よしは29歳で亡くなった。
五女せつは銀行家の夫が退職後九十九里浜に住み、智恵子が精神異常で転地した時世話した妹である。
つまり 智恵子は 九十九里浜では妹(五女)せつ夫妻の世話になり ゼームス坂病院では妹(三女)みつの娘である宮崎春子の看護を受けた。 宮崎春子は姪に当たるわけで、看護婦としてよく智恵子の世話をした。 智恵子の作品は宮崎春子を通じて光太郎、それから光太郎の甥の高村規(ただし)へと伝えられ 高村規が桐箱三つに保管していた作品を 作家の津村節子に見せてくれたのでした。
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