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[No.329] 八橋検校十三の謎 投稿者:男爵  投稿日:2012/03/16(Fri) 07:02
[関連記事

八橋検校 十三の謎(釣谷真弓著)
http://www.artespublishing.com/books/903951-08-9.html

詳しく知りたい方は
この本をお読みになってください。

ここでは邦楽の箏(琴)の八橋検校についての紹介です。

まず箏と琴はもともとは違う楽器である。
 琴には箏柱(ことじ)はない。 箏曲というくらい八橋検校の楽器は箏である。
箏は十三弦である。  もっとも現代では琴も箏も同じものをさす。

八橋検校は箏曲の祖と言われている。六段の調

検校とは、盲人芸人の最高位である。
その階級は 座頭、勾当、別当、検校となって
さらに座頭でも一度から四度までランクづけがあるように
階段を一つひとつ上っていかないといけないようになっている。
  (座頭市の座頭は位だったんですね、勝手につけられない座頭)
  (仙台市役所のそばにある勾当台公園は勾当からきている、伊達政宗が寵愛した盲目の狂歌師・花村勾当の屋敷があった)

八橋検校には実は有力なパトロン(スポンサー)がついていた。
それは奥州磐城平藩主の内藤風虎であった。
位を上がって検校にまでなるには相当の上納金を納めないといけなかった。
 幕末には検校になるには総額719両が必要だった。

なにしろ平藩主がついていたから、資金も心配なかった。
しかし、この藩主内藤風虎は文人であったが、政治には熱心でなかったため、藩主の地位を追われ、八橋検校も平から去らねばならなかった。
 あのワーグナーのパトロンとして熱心なあまり、政治をかえりみず結婚もしなかった(王座を追われ湖で謎の死をとげた)ルードヴィッヒ二世を思わせる内藤風虎。

京都の伝統菓子八ッ橋は八橋検校にまつわるものとされている。
あのお菓子の形は箏をかたどっている。(いまは生八ッ橋が有名)

現代の箏曲は山田流と生田流であるが、どちらも八橋検校の箏曲の流れをくむものである。
信州真田家に八橋流が伝えられている。
 磐城平藩主内藤家と信州真田家は姻戚関係にあったからである。


[No.427] Re: 八橋検校十三の謎 投稿者:男爵  投稿日:2012/03/19(Mon) 09:52
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> 八橋検校 十三の謎(釣谷真弓著)
> http://www.artespublishing.com/books/903951-08-9.html

> しかし、この藩主内藤風虎は文人であったが、政治には熱心でなかったため、藩主の地位を追われ、八橋検校も平から去らねばならなかった。
>  あのワーグナーのパトロンとして熱心なあまり、政治をかえりみず結婚もしなかった(王座を追われ湖で謎の死をとげた)ルードヴィッヒ二世を思わせる内藤風虎。

当時のドイツでは
鉄血宰相ビスマルクの政治力でプロイセンを中心としたドイツ帝国ができようと
していたとき、このルートヴィッヒ二世がバイエルン王であった。
本来はバイエルン王国は、プロイセン、オーストリア両強国の間にあって中小諸邦を
第三勢力として結集すべきであったが、かんじんの王様が政治嫌いで城作りと
ワーグナーのパトロンにあけくれていた。

歴史的には
ビスマルクに城の建設資金を出してもらうのと引き替えに、ドイツ皇帝と
してプロイセン王を推薦する役割をあてられてしまった王ということになっている。

なぜ王は結婚しなかったのか?
公式的な説明では
王には婚約者ゾフィがいたが、ゾフィよりもその姉のエリザベトが好きだったのだ。
エリザベトはしかし、オーストリアのフランツ・ヨーゼフ皇帝と結婚しているから、かなわぬ夢だったのだ。

 歴史上悲劇の皇妃されるエリザベトだが、フランツ・ヨーゼフ皇帝の相手として、
皇帝の母親が考えていたのは、姉のヘレナの方だった。
 しかし、見合いの席で、若いヨーゼフは慎み深い姉のヘレナより、活発な妹エリザベト
 にひとめぼれをしてしまった。 エリザベト16歳のとき。

ルートヴィッヒ2世とオーストリア皇后エリザベトは親戚で、どちらも夢みるロマン
チストであったから
生前たがいのよき理解者であったようだ。
しかし、エリザベトより8歳年下のルートヴィッヒ2世は、彼女が結婚したとき8歳ということになる。
 エリザベトが忘れられず結婚しなかったとは私には信じられないのだが。

> 京都の伝統菓子八ッ橋は八橋検校にまつわるものとされている。
> あのお菓子の形は箏をかたどっている。(いまは生八ッ橋が有名)

この本にも書かれてあるが
京都の菓子八ツ橋は
あの伊勢物語の八橋からとったものらしい。
少なくともそういう説がある。

明治になり八橋検校が京都にいたことがわかるにつれ
この菓子も八橋検校とのつながりが強調されたらしい。
 伊勢物語
  第九段、東下り・その壱
    むかし、男ありけり。
     その男、身をえうなきものに思ひなして、
     京にはあらじ、東の方に住むべき国求めにとて行きけり。
       ..........
    三河の国、八橋といふ所にいたりぬ

> 現代の箏曲は山田流と生田流であるが、どちらも八橋検校の箏曲の流れをくむものである。

ちなみに
著者は生田流筝曲家である。


[No.658] Re: 八橋検校十三の謎 投稿者:男爵  投稿日:2012/03/25(Sun) 16:15
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> 八橋検校 十三の謎(釣谷真弓著)
> http://www.artespublishing.com/books/903951-08-9.html
>
> 詳しく知りたい方は
> この本をお読みになってください。

> 八橋検校は箏曲の祖と言われている。六段の調

六段の調は、八橋検校の作とされています。

> 検校とは、盲人芸人の最高位である。

はじめ八橋検校は三味線の名人だった。
それから筑前箏の師匠について学んだらしい。
そこに秘密がある。
 つまり、手短にいえば、三味線にはギターのようなフレットがない。
だから、かなり自由にその日の自分の気持ちや演奏時の雰囲気にあわせて音の調子(音階)を変えることができる。
それまでの箏は音階を変えることはできなかったが、三味線のように八橋検校は箏柱(ことじ)の位置を微妙に変えるようにしたらしい。
 ここが八橋検校の功績だと思うのだが、いかせん素人なので確認できません。いずれ関係者に聞いて確認したいと考えています。

−−−−−−−以下はこの本の要所箇所の紹介−−−−−−−

 小泉文夫によると
日本の音階は四度のしっかりした枠であるテトラコルドの積み重ねで構成されている。
日本を含め、アジアの音楽は五音音階(1オクターヴが五つの音よりなる)であるので
テトラコルドのまん中に入る中間音の位置によって、四種の日本音階が決定されるとする。
 中国から渡来した雅楽は律音階の音階である。だから楽箏の調弦もとうぜん律音階であり、筑前箏もその系統であった。
 「さくらさくら」や日本古来の子守歌などに使われているもっとも日本的な都節音階というのは、律のテトラコルドの中間音が徐々に下がって生まれた音階なのである。これは非常におもしろい現象であり、この中間音が不安定に変化しやすいというのが、日本音階の特徴といえる。
 この現象が次第に音階にあらわれたのが、三味線においてではなかったかと思う。箏のようにブリッジ(箏柱)で音階を固定してしまうのではなく、またおなじリュート属であっても琵琶のようにフレットもない。左手のポジションで音を出すのであるから、気持ちよく感じる勘所(ツボ)にいつの間にか少しずつ移行していったと考えられる。
 この傾向は近代後期になるとさらに進んで、半音の音程がもっと狭くなっていく。だから、現代でも古典や「さくらさくら」などの古謡を演奏するときの半音程は、ピアノなどの平均律よりもわずかに低めに調弦すると落ちつく。
 これは洋楽畑の人にとってはあり得ないことであろう。音楽大学の洋楽専攻の学生にこの話をすると、カルチャーショックをおぼえるようだ。平均律で決められた音程をはずれると、それは「ピッチがはずれている」「音痴」という教育を日本は長い間おこなってきたから。