> 歌の中に出てくる水芭蕉が尾瀬沼で咲くのは実際には5月末ごろで、尾瀬の春先にあたるが、これは作詞をした江間章子が夏でも水芭蕉を見ることのできる土地で幼少を過ごしたため起きた誤りであるとされている。 > http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%8F%E3%81%AE%E6%80%9D%E3%81%84%E5%87%BA
> これはどうかはともかく > 江間章子がかつて知り合いに案内された尾瀬で水芭蕉を見たとき > とっさに子どもの頃育った、故郷の平舘(現、岩手県八幡平市)で見た「ベコ(牛)の舌」と呼ばれる水芭蕉の景色を思い出したそうです。
> 八幡平のふもとの平舘でも水芭蕉はせいぜい5月の花で6月に咲くかどうか。
水芭蕉と夏 それは江間章子が「(夏の思い出)その想いのゆくえ」に それは『歳時記』の影響なのだ。 と書いているそうです。 歳時記では、俳句の季語と実際の季節とをくらべると、すこしばかり季語の方がまえだおしになっている。
二十四節気のうち、立夏の頃は新暦の五月初旬の頃にあたり、早いところではこの頃に水芭蕉の花が咲く。
歳時記や二十四節気からすれば、水芭蕉の花にまつわる思い出のことを、夏の思い出と呼んでも、すこしもさしつかえない。 (上田信道:名作童謡ふしぎ物語)
というわけで フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』も いつも正しいわけではないという例でした。 (作詞者江間章子が自著のなかで説明しているというのですから)
論文など書くときはインターネットにあったからと鵜呑みにしないで 原典にあたる必要があります。 有名な学者の本でも間違いがあるそうです。 印刷ミスとか校正ミスもある。
また 「水芭蕉の花が匂っている」とは変だ、という人がいる。 これについても江間章子は自著で 情景からただようものを「匂っている」と詩的に表現したのだという。
文学表現では、「匂う」は嗅覚刺激だけでなく、視覚刺激も表わしますね。 上のような疑問をもつ人は日本の伝統文学を知らない新人類かもしれません。 1 よいにおいを鼻に感じる。かおりがただよう。「百合の花が―・う」「石鹸がほのかに―・う」→臭う1 2 鮮やかに色づく。特に、赤く色づく。また、色が美しく輝く。照り映える。「紅に―・う梅の花」「朝日に―・う山桜」 3 内面の美しさなどがあふれ出て、生き生きと輝く。「純な、朗らかな、恵みに―・うた相が」〈倉田・愛と認識との出発〉
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