★★ 男爵さん ★★
> 3、この歌は『尋常小学唱歌(六)』(大正三年六月)に掲載され昭和七年の
> 『新訂尋常小学唱歌』まで掲載された由です。
これは事実ではありません。僕は小学は昭和十一年四月入学、昭和十七年
三月卒ですが この歌は教わりましたし、唱歌の教科書にも掲載されていま
したヨ(笑)
♪♪船坂山や杉坂と 御後慕いて院の庄
微衷をいかで聞こえんと 桜の幹に十字の詩
天勾践を空しゅうする勿れ 時范蠡なきにしも非ず♪♪
この歌の意味は この時代の歴史的背景を知らない人には解らないでしょ
うネ。中国の歴史も大事でしょうが、それ以上に日本の歴史を学んで貰いた
いですネ。
これは鎌倉幕府末期(1330年代)の出来事で 天皇と言うのは 第九十六代・
後醍醐天皇の事です。
天皇は 天皇親政の世に戻そうと北畠親房・日野資朝と図って討幕の蜜謀
をめぐらされた。初回は密告者があって失敗…
しかし天皇は内裏を脱出、笠置城に立てこもり楠正成らと呼応して諸国に
討幕の檄を飛ばす。
ここにおいて幕府は 後醍醐天皇を捕縛、隠岐の島に流罪とした。これは
その護送の過程での出来事です。
児島高徳は何とか天皇を奪還しようと護送の後を追って院の庄に忍び込ん
だが、警戒が厳しく天皇に近づけない。そこでやむを得ず桜の幹に詩を記し
胸中をお伝えしたのです。
隠岐の島に流された天皇は やがて島を脱出、鳥取の豪族・名和長年に迎
えられて討幕の初志を果たされる。この名和長年の子孫は明治維新で 士農
工商の身分制度が廃絶されたときに 華族に列せられました。
そしてその名和の末裔には子がなく、僕の妹婿 故・瀬戸口正雄の大叔父
達次郎が養子にはいっています。
♪♪我こそは新島守りよ隠岐の海の 荒き波風心して吹け♪♪
これは隠岐に流された後醍醐天皇の御製です。
瀬里恵